「反論したところで逆効果」という外務省内の空気

慰安婦問題への対応を振り返る時、外務省内での空気の大勢は、「歴史問題一般はともかくとして、慰安婦問題については問題の性格上申し開きできないし、如何に反論したところで逆効果」というものであったことは間違いない。アーミテージ元米国務副長官のような「知日派」が、「この問題については、日本は謝り続けるしかない」などとたびたび語っていたことも影響してきたのだろう。

すなわち、外務省にあっては、当時の事情をきちんと説明し、まま見られてきた相手方の誤解に反論をしようとの意思統一さえできていなかったのだ。官房長官自らが「強制性」を認め、謝罪してしまった経緯がある。であれば、動き回れる余地は少なかったということは言えよう。何人もの外務省員がこの問題を提起されるたびに、慰安婦問題の実相を粘り強く説く努力を「蟷螂の斧」とばかりに最初から放棄してしまい、「河野談話」の引用に安直に逃げ込むことを選好してきたことは間違いない。

だが、彼らの不幸は、そうしたところでこの問題が消えてなくならなかったことだ。むしろ、政府を代表する立場の人間が日本の非道を認めて謝罪したのだと受け止められ、次は補償の問題に移ってきた。そして、歴史戦での反日勢力の攻勢を勢いづかせてきた。この点を理解していない外務官僚が実に多いように思う。

豪州でも差し込まれた慰安婦問題

豪州にあっても、私が着任するまでの間、慰安婦問題について日本を糾弾する動きが一部勢力の間で根強く絶え間なかった。

オーストラリア・メルボルンの韓国人会館に設置された「慰安婦像」(写真=April Jennifer Muller/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

豪州の政治家、メディアが慰安婦問題を自国の問題として捉えるようになった大きなきっかけは、元オランダ人慰安婦のジャン・ラフ・オハーン氏だった。第二次大戦中に当時のオランダ領東インド(現インドネシア)を旧日本軍が占領した後に慰安婦にされ、戦後は豪州に移住。朝鮮戦争でレイプ被害に遭った女性が裁判に訴える姿を見たことがきっかけになったと言われているが、1992年に自らの体験を公表し、94年には回想録を出版した。2007年には慰安婦問題に関する米国下院の公聴会で証言し、日本政府に謝罪を求める非難決議の採択につながったとされている。

こうした動きと呼応して、豪州連邦議会では、慰安婦問題に関する決議が2007年2月と9月の二回にわたって提出された。幸い、いずれも僅差で否決された。特に、二度目の9月にはペニー・ウォン上院議員(現外相)が提出し、日本に公式謝罪、補償、正確な歴史教育を求める、といった内容だった。なんと賛成34票、反対35票というきわどい展開であった。

また、慰安婦像については、2016年8月にはシドニーの韓国人会館に設置(その後、教会に移設)、2019年11月にはメルボルンの韓国人会館に設置された経緯がある。いずれも私有地であるものの、今なお存在していることに変わりはない。