日本は慰安婦問題にどのように対応すべきか。前駐オーストラリア特命全権大使の山上信吾さんは「非人道性を強調する慰安婦問題は、謝罪や補償をしても、それで終わる保証が一切ない。日本の外交官は、任国で常日頃から人間関係を構築しつつ、要人が韓国側のナラティブに一方的に染められないようにする必要がある」という――。

※本稿は、山上信吾『日本外交の劣化』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

オーストラリア・アッシュフィールドに設置された「慰安婦像」
オーストラリア・アッシュフィールドに設置された「慰安婦像」(写真=Oronsay/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

河野談話の「総じて」という文言が禍根を残した

ここまで問題を複雑化させたのは、メディア報道を受けて外交問題となった時の日本政府の対処のまずさによるところが大きい。

最たるものが、1993年8月に河野洋平内閣官房長官が発表した有名な河野談話だ。

その中には、「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」との文言が盛り込まれ、慰安婦であった女性への「心からのお詫びと反省」が表明された。

日本政府が保有していた文書を調べた結果、慰安婦の強制連行を裏付ける資料が見当たらなかったにもかかわらず、「総じて本人たちの意思に反して行われた」として「強制性」が認定されたのだ。こうした対応は、強制性の認定と謝罪を求めてきた韓国側の立場を踏まえ、政治的判断として盛り込まれたと評されてきた。

これらの文言のうち、「総じて」という曖昧模糊とした文言が将来に禍根を残したことは間違いない。その後、外交現場でこの問題を議論する際にも、慰安婦問題で日本を糾弾しようとする相手に何か反論しようものなら、相手方から、「日本政府を代表する立場にある官房長官が強制性を認めて謝ったではないか? その談話を否定するのか!」という反撃に遭ってきたことをよく覚えている。

「戦後処理の例外」を自ら作り出してしまった日本政府

本来、このような事態が将来生じて紛糾することがないよう、1965年の請求権・経済協力協定で「完全かつ最終的に解決」という文言を苦労して盛り込んだはずだったのではないか。なのに、「女性の名誉と尊厳を深く傷つけるものであった」という錦の御旗を掲げられ、また、韓国政府からの声高な要求に折れて、「強制性」があったことを認め、法的には解決済みであっても道義的責任があるとして謝罪したのだ。さらに、より深刻なことは、問題が談話発出で済まなかったことだ。むしろ、その後、30年経った今でもこの問題が尾を引いている。誠に大きな禍根を残すこととなったのだ。

河野談話を受けた大きな節目が、1995年の戦後50年の機会だった。

慰安婦救済のための民間基金構想が前年から生まれ、ついにこの年に「女性のためのアジア平和国民基金」(略称・アジア女性基金)が設立されたのである。推進役を果たしたのは、社会党出身の当時の官房長官と外務省チャイナスクールの大立者だった内閣外政審議室長であったと見られている。

この基金こそは、法的つじつま合わせの産物だった。

すなわち、戦後処理の問題は法的に解決済みであるとの国家としての大原則を崩すわけにはいかない。そこで、法的整合性を確保するために、基金は国民からの募金による「民間基金」という形で決着させたのである。