男色がタブーではなかった戦国時代、家康はどうだったか

そうなるともうひとつ考えられるのが、当時の家康は男色に夢中だったから、側室を持たなかったという説です。

家康の男色というと、相手として挙げられるのが、彦根藩の初代藩主となる井伊直政です。松平徳川家と井伊家というのは、そこまで古いつながりのある家柄ではないものの、家康が関東入りしたときには徳川家臣団のなかで、井伊直政が最もたくさんの領地を与えられています。本多忠勝や榊原康政が10万石なのに対して、井伊直政だけが12万石ももらっている。そうなると、昔から松平徳川家を支えてきた三河武士たちからすると、「なんで直政だけが」ということになるのが自然です。

これは史料的にはあまり信頼性がないのですが、幕末から明治にかけて作られた人物伝『名将言行録』には、井伊直政は、徳川家康と男色の関係にあったから、あれほどの領地を与えられたのだと書かれています。三河武士としてはそうした納得の仕方をせざるを得なかったのやもしれません。

ただ、冷静に考えてみると、どうも徳川家康には側室だけでなくて、他に男色の話もほとんど聞きません。武士の嗜みとして、男色の相手がいたとしてももちろんおかしくはないのですが、そういう話はほとんどないのです。

ですから、井伊直政がそれだけの領地を得たというのは、やはり命懸けの奉公をした結果だろうと思います。直政は関ヶ原の戦いで奮闘し、島津軍を打ち破るなどの目覚ましい活躍を遂げますが、その際の銃撃の傷がもとで、若くして亡くなっています。

図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)(図版=国立国会図書館デジタルコレクション)

家康はなぜか側室の産んだ結城秀康を認めなかった

その後、家康は於万の方という側室をもうけて、彼女との間に二番目の息子が生まれています。この子どもがのちの結城秀康となります。嫡男の信康は、謀反の疑いをかけられて、結局、自害させられてしまうわけですから、順番で言えば、この秀康が世継ぎとなってもおかしくはないのですが、結局、その弟にあたる秀忠が、将軍職を継ぐことになります。

そのことからもわかるように、どうも家康はこの結城秀康を愛していないところがあります。当初は認知すらしていないのです。あまりにも毛嫌いするので、嫡男の信康が「それはあんまりです」と間に入って、ようやく息子として認めるわけですが、結局、世継ぎとしては認めませんでした。

能力はなかなかあったようですが、それでも認めなかったのはなぜか、理由というのは、実際のところよくわかっていません。