※本稿は、本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
徳川家康の性愛――なぜか側室がほとんどいない前半生
徳川家康に関する性愛についていうと、非常に不思議なのは、若い頃にはほとんど側室をもうけていないという点です。今川氏の娘である築山殿を正室にもらい、嫡男の松平信康、長女の亀姫が生まれた後には、全くと言って子作りをしていません。
戦国の世ですから、嫡男がいるとはいえ、何が起こるかはわからない。ゆくゆくは戦場に立って戦死したり、病に罹って亡くなったりするかもしれない。だからこそ、多くの戦国大名は側室を持ち、産めよ殖やせよではありませんが、子どもをたくさん持つことを良しとしたわけです。
しかし、浜松にいた頃の家康は、西郡局という側室しか置きませんでした。正室の築山殿とは浜松と岡崎で、別居していたのに。西郡局との間には家康にとっては次女にあたる督姫が生まれていますが、積極的に子どもを作ろうとはしていません。当時の家康は20代後半から30代くらいなわけですから、そうした意欲はあって然るべきでしょう。しかし、驚くほどにそういう話がないわけです。
それではこの西郡局が、家康のハートをしっかりとつかんで離さなかったかというと、そういう感じは全くないわけです。晩年の家康は、この西郡局を大事にしていないのです。西郡局が亡くなったときには、家康本人が葬儀を執り仕切るのではなく、娘の督姫の夫である池田輝政にその一切を任せてしまっています。
そのような態度を考えると、どうも西郡局を大切にしていたから、他に側室をもうけなかったということでもない様です。
子作りをしなかったのは信玄からのストレスが原因か
先にも述べたようにお家の繁栄のためには、子どもはたくさんいたほうがいいわけなので、そのためには側室を持つことは、戦国大名にとって悪いことではありません。むしろ当時の規範としては、推奨されていたことです。
では、なぜ若かりし頃の家康には側室がほとんどおらず、子どもも積極的に作ろうとしなかったのか。
この問いへの回答のひとつとして、甲斐の武田信玄が本当に怖くて、ストレスのあまり、とても女性を抱くなんていうことをイメージすらできなかったのではないかとも考えられなくはないでしょう。ブラック企業で働いて、労働の疲れとストレスのあまりにセックスレスになる、というのは現代でもよく聞くところです。
とはいえ、生物は死の恐怖を感じると、子孫を残そうとして性的な行動に走るともまことしやかに言われますから、武田信玄に対する恐怖という説もどこまで本当かは定かではありません。