なぜ北京は中国の辺境にあるのか
図表1のように、中国を5つの四角形で図式化すると、北京はちょうど中国本土と満洲とモンゴルの3世界が交わる場所にあるんです。中国本土から見て辺境と言っていい。私の師でもある妹尾達彦先生(中央大学教授)の見方ですと、中国本土だけではなく外の空間の支配も目指すような大帝国は、こうした境界地域に都を置く。
確かに唐の長安も、中国本土のなかではかなり西北に寄った場所で、地理的には中華世界の中心ではありません。ただ、モンゴルや西域に目配りをするなら、それらの地域との境界上にあるといえる。逆に外の世界への関心が薄くて中国本土だけに関心を持っている王朝の場合は、洛陽なり開封なり、また南京なりという、中国本土のより奥まった場所に都を置くわけです。
――王朝の都が置かれる場所によって、大まかに対外的な積極性を判断できるのはすごく面白いですね。非拡大的な性質を持つのは、たとえば後漢(洛陽)、北宋(開封)、初期の明朝(南京)、中華民国(南京)あたりでしょうかね。
宮崎市定先生(1901~1995、京都大学名誉教授)も同じことをおっしゃっていました。たとえば明朝の場合、初代の洪武帝は南京に都を置いた。ただ、永楽帝が政権を簒奪すると北京に遷都した。これは自分の甥の建文帝を殺害した南京に住むのが嫌だったからだと説明されるときもありますが、宮崎先生に言わせればそうではないと。
対外的な意識の強さが都の位置に表れている
永楽帝はモンゴル高原への外征を繰り返していたことからもわかるように、モンゴル帝国の後継者を自認していた。大元ウルスを明朝という名前で復活させようという野望があったのです。当然、中国だけではなく満洲やモンゴルも支配の対象ですから、そのために北京に都を移したのだと。もっとも明朝の場合、その後の皇帝たちが弱くて、対外拡張的な傾向はほぼ永楽帝の一代限りになってしまいましたが。非常に面白い仮説です。
――そういえば現代の中華人民共和国は、北京に首都があります。領域の面では清朝を継承していますし、往年のソ連との関係なり現代の一帯一路政策なり、やはり外に目を向けるうえで首都を北京に置く必然性があるといえるのかもしれませんね。