『大唐西域記』には書かれなかった“重要情報”
――玄奘は当時の中国で最高レベルの知識人です。地域の事情を網羅的かつ分析的にとらえて、しかもそれを言語化して文章に残す能力を持つ稀有な人材だったはず。隊商がもたらす断片的な情報とは桁違いの情報を持ち帰ることができたでしょう。
傍証的な事実もあります。玄奘は旅のなかで西突厥の可汗(カガン、君主)の保護を受けたのですが、このことはなぜか『大唐西域記』には書かれず、彼の伝記にだけ残っている。その理由としては、唐王朝が『大唐西域記』を公布した際に、重要情報の記述を故意に削除して表に出したためではないか。
いっぽうで西突厥のことが書かれていた伝記は、そのまま玄奘の墓に一緒に埋められました。後年、西突厥の滅亡後にそれが掘り出された際に、すでに機密情報扱いは解除ということで、西突厥の記述が修正されたうえで刊行されたのではないか。そうした推理も可能なわけです。
――玄奘が最初からスパイ目的で行動していたかはともかく、彼の情報に諜報的価値があったことで、唐王朝から重宝された可能性はありますよね。現在の中国で拘束されている日本人も、似たような事情を抱えている人がいそうですし……。
玄奘が好きな人たちからは叱られそうな説です。ただ、私はありうる話だと感じますね。
死後も尊敬され続けた安禄山
――唐王朝の歴史を大きく変えたのが、755年から起きた安史の乱です。反乱の中心となった安禄山と史思明は、いずれも中央アジアの交易で知られるソグド人の血筋だったとされます。ただ、彼らは王朝から見れば反乱者ですが、根拠地の幽州(現在の北京付近)では、その後も住民の尊敬を集めていたといいます。
唐の憲宗が崩御(820年)した後、中央から幽州に送り込まれた節度使が「反逆者はけしからん」ということで安禄山の墓を暴いて柩を壊したところ、地元から猛反発を受けています。当時はすでに安史の乱から3世代くらい時代が下っていましたが、安禄山は地域の英雄としてまだ敬意を持たれていた。当時の幽州は、ソグドや突厥などにルーツを持つ住民も多い地域でしたからね。
――こうした安禄山信仰は、さすがに現在の北京には残っていませんか?
ええ。幽州の周辺地域は、唐の滅亡後の五代十国期に契丹から占領される(燕雲十六州)。その際に多くの住民が契丹領内に連れて行かれているんです。現在でいう内モンゴルや遼寧省のあたりで農耕技術を教えたり、契丹の朝廷に中華式の儀礼を伝えたり。かわりに幽州には、契丹人やその他の民族が入り込みました。住民が入れ替わったことで、現地の安禄山の記憶も薄れてしまったと思われます。
――契丹はこの燕雲十六州に副都の「南京(燕京)」を置き、次の金や大元ウルスはこの街を都にします。現在の北京の直接のルーツです。北京は現代中国の首都なのですが、過去1000年間の歴史を見ると、実は漢民族とは異なる民族に支配されていた時期のほうが長いのですよね。中国の象徴のように思われている街なのに、実は非中国的要素が強い。