維新後、死にたがっていた姿

目的達成のためなら、犠牲が出ることもいとわない西郷は、自身の命にも頓着していなかった向きがある。1868(慶応4)年7月の上野戦争では、味方の薩摩藩士を皆殺しにするかのような大村益次郎の策を受け入れ、激戦地となる寛永寺の黒門前で陣頭指揮を執った。

山本博文(監修)造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)

のちの明治政府で征韓問題がもち上がった際も、西郷は自分が殺される可能性を顧みずに朝鮮への渡航を強硬に主張している。維新を成し遂げたあとの西郷は、死にたがっていたともいえるのである。

不平士族とともに起こした西南戦争も、西郷による「集団自殺」との指摘がある。反乱軍の目的が政府の真意を問うものであれば、海路から東京に向かえばよかったはずだ。

しかし西郷は愚直に熊本鎮台への攻撃を仕掛け、自分を慕う士族とともに命を散らした。

「我を愛する心を以て人を愛する也」と「敬天愛人」の思想を説いた西郷だが、そもそも自分自身への愛はどれほど持っていたのだろうか。

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