都合よく利用されてきた富士山
2013年に世界文化遺産に登録された富士山には、日本人だけでなく、多くの外国人観光客が訪れている。
約2カ月間の夏山シーズン中には30万人以上が頂上を目指し、過剰利用(オーバーツーリズム)が問題となっている。
ことしのお盆期間中も大混雑し、救援依頼などが続出した。弾丸登山による無謀な事例も数多く見られた。尿入りのペットボトルが捨てられるなど、ごみやし尿の問題もまだまだあるようだ。
それだけに、地元からは「せっかく世界文化遺産に登録されたのに、富士山が泣いている」などと嘆く声が聞こえる。
筆者は1990年代前半の富士山世界遺産登録運動を担ってきた。昔から天然自然にある富士山が「世界文化遺産だから泣いている」と言われても非常にわかりにくい。
自然美が評価されたわけではない
富士山の世界遺産登録を巡っては、2013年7月の世界遺産委員会総会において、日本政府が提出した「富士山」の名称を「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」と変更することで登録がようやく決定した。
富士山を信仰の対象、神とみなしたのは江戸時代に盛んとなった庶民信仰の富士講である。富士講を象徴する和歌がその教えをよく伝える。
「富士の山登りて見れば何もなし よきもあしきも我が心なり」
富士講では、毎月3のつく日にごま焚きなどを行い、富士登山に向かうまでに身を清める修行に明け暮れる。先達の教えを守り、富士山に登るのは、自分自身の精神を高めることを目標とする。
だが、いまや富士山を「信仰の対象」とする富士講信者らも、数えるほどしかいない。まして、観光で訪れる海外の人たちに富士講の教えは何の意味も持たない。
富士山が日本を代表する自然美として世界に認められたわけではなく、4つの登山道など25の構成遺産が、すべて「信仰の対象」として世界文化遺産に登録された。
つまり、富士山の自然の美しさではなく、「信仰の対象と芸術の源泉」に関わる点と線の部分が世界遺産になったに過ぎない。