欧米に追い付け追い越せの気分にいた
当時、日本は日露戦争の勝利に浮かれ、大国ロシアを破った世界に冠たる大日本帝国の軍事力を自慢していた。
ついに欧米に追いつき、追い抜いたような気分の中にいたのだ。
もともと『学問のすゝめ』など明治時代きっての啓蒙思想家、福沢諭吉が1885年に、日本の欧化主義を唱えた『脱亜論』を発表した。
「脱亜入欧」(アジアから脱して欧米の仲間入りすること)を唱え、日本は、近隣諸国を植民地化しようとする「欧化主義」を進めるべきだと福沢は主張した。
日本国の最大の目的は欧米の帝国列強に肩を並べることになった。
「欧化主義」へのアンチテーゼ
この「欧化主義」に対して、植民地化された近隣諸国に深い共感を持つ「アジア主義」が生まれる。
「欧化主義」を嫌った漱石は1906年、「アジア主義」に共感を抱く小説『坊っちゃん』を発表した。
四国・松山の中学校に赴任した正義感あふれる江戸っ子の坊っちゃんと、同僚となる会津出身で反骨精神旺盛な山嵐は「アジア主義」者であり、教頭で、帝国大学出身の赤シャツとその太鼓持ちの野田は「欧化主義」者に描かれる。
カタカナや横文字ばかり使う赤シャツは典型的なハイカラ(西洋風を気取る)人間であり、ハイカラを嫌い、その軽薄さに対する坊っちゃんの嫌悪感は漱石の実感だったことが伝わる。
江戸と会津という明治維新の敗者2人がハイカラに対立する粗野なバンカラな人間として暴れ回るが、結局は、学校に辞表を提出して松山を去るのだ。
極端な「欧化主義」による明治国家体制はいつか「亡びる」とする予感を漱石は抱いた。
だから、『坊っちゃん』から2年後の小説『三四郎』の中で、富士山を日本の象徴として、広田先生に「亡びるね」と言わせたのである。
漱石は、車窓から見える富士山の美しい姿を通じて、外来の「抽象」ではなく、日本人のあるべき姿を求めたのだろう。