富士山は「戦争」に利用された
しかし、漱石の思いは裏切られ、日中戦争、太平洋戦争に突入すると、日本人は富士山を戦争協力の材料としてしまう。
太平洋戦争中に、富士山は「神国」日本の象徴として、戦意を高揚する絵画や軍歌などに盛んに利用された。
日本美術報国会会長として軍部に積極的に協力した日本画家、横山大観は1940年、「海山十題」の20点の大作を描き、日本橋のデパートで公開した。山にちなむ十題はすべて「霊峰富士」が題材だった。
売り上げはすべて陸軍省、海軍省に献金され、すべて戦闘機の費用にに充てられた。「大観の富士山」は軍部への献納熱をあおり、戦意高揚に利用された。
軍歌にも富士山は多数登場する。
「ああ晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ 金甌無欠ゆるぎなき わが日本の誇りなり」(「愛国行進曲」)など、富士山は「軍国主義」「皇国思想」の象徴になり下がった。
戦後、富士山は「侵略国」日本の象徴として一部の知識人らに忌み嫌われた。戦時中に果たした役割から、あまりにも危険な存在になったからだ。
戦時中の記憶がよみがえり、富士山は「危険な存在」「厄介な存在」であり続けた。
今度は「観光」に利用されているだけ
ところが、戦後70年近くなって、富士山を日本人の「崇高な存在」としてユネスコ世界遺産委員会が世界文化遺産のお墨つきを与えた。
富士山の戦時中の過去は、まったく問われなかった。
戦時中、日本人が富士山を戦意高揚のために利用したことなど、まったく問題にされなかった。
世界文化遺産登録によって、一部の日本人が抱き続けていた「富士山を戦争に利用した」という罪悪感をきれいさっぱりと吹き飛ばしてくれた。
その結果、富士山は今度は「観光」に利用されることになった。
オーバーツーリズムに厳密に対処しようとするならば、もっと積極的な入山規制をすればいいが、行政はそれをしたがらない。
山梨県はことしに入り2000円の入山料と4000人の人数制限こそ始めたが、台湾最高峰の玉山(日本統治時代は新高山、3952メートル)の1日約200人に比べればその差は圧倒的である。まさに富士山を「飯のタネ」としか見ていないということだろう。
富士山を訪れるインバウンド(訪日外国人)の急増は、こうした富士山の戦争利用のことなど遠い過去の話としてしまうに違いない。
漱石の時代と違い、海外から観光客が大挙して富士山を訪れる。
かつては富士山が戦争に利用されたなど夢にも思わないだろう。
日本人でさえそんなことを覚えている人はいずれいなくなるだろう。