慶喜への恨みを強め処刑を強く求めた
加えて、同年5月に発生した天狗党の乱への慶喜の対応も、西郷を苛立たせた。天狗党は慶喜の実家である水戸藩の尊王攘夷派志士の集団である。
反乱を起こした彼らは慶喜に尊皇攘夷の意志を伝えるために西上するが、慶喜はみずから討伐軍を率いて乱の鎮圧にあたった。やむなく投降した党員の半数にあたる352人が、斬首刑に処されたという。事の顛末を聞いた西郷は大いに憤り、慶喜への憎悪を強めていくのである。
その後の政局は、まさに薩摩藩と慶喜の政争であった。雄藩連合による公議政体の実現を目指す西郷は、大久保利通とともに薩摩・土佐・宇和島・福井各藩の代表者による「四侯会議」の開催にこぎ着けるも、結局は慶喜に主導権を握られてしまう。
起死回生の策として用いた討幕の密勅も、大政奉還により無意味なものとされてしまった。西郷と大久保がくり出す策は、ことごとく慶喜につぶされた。
だが、そんな慶喜も、1868(慶応4)年1月に鳥羽・伏見の戦いで敗北したのちは恭順の意思を示し、西郷と勝海舟の間で行なわれた会談の結果、水戸での謹慎が決まる。
ただし、西郷は交渉の直前まで慶喜の処刑を強く求めていた。それほどまでに慶喜への恨みは強かったのである。
「いざというときは殺してしまえ」の精神
こうした不寛容や執念深さに加え、西郷は目的のためには手段を選ばない強引さと非情さも持ち合わせている。
時系列は前後するが、1867(慶応3)年12月、王政復古の大号令を受けて開催された小御所会議では、慶喜の処遇が主要議題となった。
大久保と岩倉具視は慶喜の官位返上と領地返納を求めたが、佐幕派である前土佐藩主の山内容堂や福井藩主の松平春嶽が強く反発し、容堂と岩倉の口げんかのような討論が続いた。
会議はしばしの休憩となり、大久保と岩倉は別室に控えていた西郷に状況を説明する。すると、西郷は「短刀一本あれば片がつく」と答えた。「いざというときは殺してしまえ」という意味である。
このやり取りを伝え聞いた容堂は、再開された会議ですっかり大人しくなってしまったという。
最終的に、この会議では慶喜の辞官納地が決まる。とはいえ、西郷がねらうのはあくまで武力による旧幕府勢力の打倒である。開戦の口実が欲しい西郷は尊攘派の浪士を雇い、江戸市中で略奪や放火、暴行などのテロ行為を起こさせた。
やがて江戸城の二の丸からも火の手が上がり、旧幕臣は浪士への武力行使に打って出る。市中を警備していた庄内藩は、1000の兵を率いて芝の薩摩藩邸を焼き討ちにした。
死者数は、双方合わせて75人。その中には、罪のない薩摩藩邸の使用人も含まれていた。この焼き討ち事件が契機となり、鳥羽・伏見の戦いが勃発するのである。