老いてなお燃え上がる社会への使命感
そして昭和五十七年、松下幸之助は突如、保守新党の結成に名乗りを上げた。
ちょうど、鈴木善幸総理が退任し、中曽根康弘、安倍晋太郎、河本敏夫、中川一郎の四人により、総裁選予備選が行われる、というタイミングである。
松下は、既存の政治家には、一切、声をかけなかった。財界の主要な人物と連携して、財界が主導する保守新党を、造ろうというのである。経済の分かる、商売に通じた人間こそが、国会議員になるべきだ、という信念をいよいよ実現する機会だ、と思ったのである。
松下の話に耳を傾けたのは、永野重雄ただ一人だった。永野は当時、新日本製鐵の名誉会長であり、日本商工会議所の会頭であった。永野から見ると、松下は中小企業経営者のアイドルだった。中小企業の経営者たちは、みな、松下幸之助にあやかりたいと思っている。その影響力を元に、日本商工連盟を作り日本の政治を正そう……。
永野も、また、松下と同様の危機感を抱いていたのである。結論から言えば、新党計画は、結局、頓挫した。しかし、晩年の松下の、強い、燃えるような使命感は、やはり胸を打つ。
松下は平成二年四月二十九日に気管支肺炎のため、守口市の松下記念病院で亡くなった。九十四歳だった。遺産総額は二千四百四十九億円で日本最高とされるが、そのうちの九十パーセントは松下電器グループの株式だったという。