松下が後継者として選んだ青年の素性

松下は、男児に恵まれなかった。大正十五年、唯一の男児として授かった幸一は、一歳になる前に亡くなってしまった。

光雲荘は、幸之助の後継者たる婿を迎えるための、邸宅という意味あいも帯びていた。

幸之助が、自らの婿として、白羽の矢を立てたのは、平田正治という二十九歳の青年だった。

東京帝大を卒業し、当時三井銀行に勤務していた。正治は、平田東助伯爵の孫である。

平田東助は、米沢(山形県)の人。明治二年、藩命により大学南校に修学し、四年岩倉具視率いる欧州回覧に加わり、ドイツで法律、政治を学び、帰国後、内務、大蔵省に勤務した。十五年には、憲法制定のため伊藤博文の渡欧に随行、帰国後、太政官書記官、法制局参事官、枢密院書記官長、法制局長官、桂太郎内閣の農商務大臣、第二次桂内閣の内務大臣、貴族院議員、枢密顧問官を歴任している。山縣有朋系の官僚政治家として、明治、大正の政治を切り回した人物である。

その、平田東助の孫を、自らの女婿として迎えようと決断した、松下幸之助の、心中、目論見とは、一体、どのようなものだったのだろうか。

社会の一員としての自覚を強くもつ

松下幸之助を語る上で、その実業家としての手腕とは別に、社会運動家としての側面を無視する訳にはいかない。

戦時中、松下幸之助は、「特攻の父」大西瀧治郎にその創意と生産技術を認められ、畑違いの海軍艦艇から、ついには飛行機までも生産する羽目になった。

もちろん、祖国の命運をかけた戦争に対して、参加し貢献するのは、近代国家の国民としては、当然のことだろう。とはいえまた、結局、敗北してしまったという事実は強い喪失感をもたらしたし、国土と人心の荒廃は大きな衝撃と悲しみをもたらした。

たしかに、本来の事業である家庭電器製品の製造に復帰できたということは、大きな悦びだったに違いない。けれども、松下は、戦争という暗い雲が通り過ぎた後にも、電器メーカー経営者という立場からのみ、社会と関わっていた訳ではなかったのである。