日本国憲法公布の日に研究所を開設

昭和二十一年十一月三日、日本国憲法が公布された。

アメリカ占領軍の進駐がほぼ完了した十月四日、近衛文麿国務大臣と面会したダグラス・マッカーサーは、憲法は改正しなければならないこと、改正に際しては民主主義的要素を十分に取り入れること、選挙権を拡大し、婦人と労働者にも選挙権を付与することを要求した。

けれども、結局、日本側は新しい憲法を自ら作り上げることはできなかった。GHQは、二十人程度の米軍将校と軍属を集めて新憲法を起草し、日本政府はその草案に基づいた憲法を発表した。憲法は枢密院の諮詢を経て、衆議院で二月、貴族院で一月、審議され、可決に至った。

憲法公布の日、門真の松下電器本社修養室において、PHP研究所の開所式が行われた。

PHP研究所
写真=Mti/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons
現在のPHP研究所

参列者は、社の幹部七十人、所員は松下を筆頭に七人にすぎない。

PHPとは、松下幸之助が考案した標語で、その含意は、Peace and Happiness through Prosperity、つまり「繁栄を通して平和と幸福を実現する」、ということである。

理不尽な処遇の中、PHPを軸に活動を続ける

当時、松下は、占領軍から公職追放の処分を受けていた。そのため社業に関わることができなかった。

「ヤミの時代に公定価格を守り、戦争被害者(引用者注:敗戦により軍需の支払いを踏み倒された被害者の意)としてのばく大な借金を、少しでも返そうと心がけている。しかるに働けば働くほど赤字はふえ、あまつさえ税金滞納王として公表された。自分は正しいことをしているのに、自分の力以外の作用で苦境に立たされている。なぜ人間はこんなに苦しまなければならないのか、そこから私の人間研究がはじまった。われわれは真の幸福を招来できないものだろうか。こうして私のPHPの研究がはじまった」(『社史資料No.11』「戦後5カ年のわが社」より「会長の述懐」)

松下のもっている、ある意味でのラジカルさが前面に出た言葉である。いくらでも利益を得られる機会がありながら公定価格を墨守し、国家の求めに応じて新事業に取り組んだため追放処分を受け、その上税金を払うことができなかったために、滞納王という汚名を着せられてしまった。なんとも理不尽な、納得のいかない処遇だと思っても、無理はないだろう。旧約聖書のヨブさながら、という心境だったのではないか。

けれども、松下は宗教に頼ることも、イデオロギーに縋ることもなく、研究と運動に邁進した。松下は、研究所を設立した十一月三日から年の末まで、四十三回の講演、懇親会を開いている。まるで、総選挙前の代議士を思わせるような精力的な活動ぶりだ。

昭和二十五年までに、松下は、京都府庁、大阪府庁、住友銀行本店、関西電力、東西本願寺、名古屋刑務所などを巡り、PHPの理念を説き続けた。PHP研究所は、京都の本部を中心として、今日も、松下の思想の研究と普及に努めている。