拡大する戦火の下、成長を続けた松下電器

戦前日本の大きなターニング・ポイントは、昭和十二年である。同年六月四日に第一次近衛内閣が発足したが、その一カ月後の盧溝橋事件をきっかけに日華事変が勃発、八月には上海に戦火が飛火している。

政府も大本営も、小規模の軍事衝突にすぎず、短期間で終結すると予測していたが、戦火は拡大の一途をたどり、その拡大過程の中で、日本の政治、経済、文化もまた、変質していった。

松下電器もまた、国家体制が変わってゆくなか、従来の民間の需要に限らず、軍需にも対応せざるを得なくなった。もっとも、軍需を引き受けることは、けして悪いことばかりではなかった。たしかに、陸海軍の指導、統制を受けることは、好ましくはなかったが、支払いは確実であり、利益は十分得られた。

それ以上に重要なのは、兵器という高い精度を必要とする製品を扱うことによって、会社の技術力自体が、飛躍的に伸びたのである。そして、この、戦線が拡大していく、世相の急変を前にしながら、松下幸之助は、一つ目の絶頂期ともいうべき、節目を迎えていた。

300年間残る建物としてつくられた「光雲荘」

昭和十二年から、二年半の月日と六十万円の巨費を注いで、兵庫県西宮に自宅「光雲荘」を建てたのである。

松下幸之助は、光雲荘を、三百年間は残る建物にしたい、という抱負で建てた。

私は、一度、光雲荘を訪れたことがある。数寄屋造りに書院造りを折衷し、茶室、洋室とあらゆるスタイルの部屋が、吟味されぬいた素材、意匠により彩られていた。

特に、照明器具は壮麗をきわめていて、電器メーカーとしての矜持を賭してという意気込みが感じられた。アールデコ様式に則った、軍艦を象った巨大な吊り下げ式のランプ。マホガニーの天井に、アールヌーボー風の花、葉をあしらった嵌め込み式の電器照明、笠型の磁器にした茶室の手元灯。

円状に湾曲する大きなガラス張りの談話室は、ル・コルビュジエを彷彿とさせるような、モダンなデザインであるけれど、何よりも驚かされるのは、その、二メートル以上に及ぶ、深く広い軒が、一本の柱にも支えられずに、自立していたことである。

その軒の上には、当然のように、重厚な瓦が載せられている。「三百年後」という、松下幸之助の思いの強烈さを、一番、直接に感じることができるのが、この、一本の支柱ももたない、深い、カーブを描いた軒であることは間違いない。

叩き出しと思われる赤銅の樋とその集水器は、まるでフォーミュラ1レーシングカーのような、スマートさと機能美をみせつけ、垣は、典雅を極めた竹穂による離宮垣で構成されていた。まさしく、幸之助の思いのこもった、典雅かつ豪奢な建物だった。

けれども、実際のところ、光雲荘は「三百年」、創建当時の姿を維持することはできなかった。平成七年一月十七日の阪神・淡路大震災により、倒壊してしまったのである。

創建から約六十年後のことであった。その後光雲荘は、再建され、平成二十年、枚方のパナソニック人材開発カンパニーの敷地内に移築された。