強制労働に耐えても殺される運命

この構想では、ユダヤ人を労働動員の対象とすることが重要な役割を果たしていた。会議の議事録には、次のようにある。

「管轄する機関による管理運営のもと、今や最終解決の実施でユダヤ人は、適切な方法によって東部で労働動員に投入されることとなる。労働可能なユダヤ人は、大規模な労働部隊に編成されて、男女ごとにこの地域で道路建設工事に動員される。そのさい、その大部分は間違いなく自然減少によって脱落することになる。
場合によっては最後まで残るかもしれない部分〔ユダヤ人〕には、この場合間違いなくもっとも抵抗力のある部分なのであるから、適切な処置がなされなければならない。この部分は、自然による淘汰を経て〔生き延びて〕きたのであり、これを野放しにすれば、新たなユダヤ人社会建設の出発点となるものと見なされるからである」。(※4)

※4 Protokoll der Wannseekonferenz. 以下などに載っている。Mark Roseman: Die Wannsee-Konferenz. Wie die NS-Bürokratie den Holocaust organisierte, Berlin, München 2002, S. 170-184.〔ヴァンゼー会議記念館編著、山根徹也・清水雅大訳『資料を見て考えるホロコーストの歴史─ヴァンゼー会議とナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策』、春風社、2015年、150─153頁を参考にした〕

要するに、「労働動員」は殺戮を偽装するための概念ではなかった。事実、労働可能なユダヤ人を強制労働させる計画は存在した。だが、そのなかでもっとも体力のあるユダヤ人が辛労を耐え抜いた場合には、同様に殺害されることとなっていたのだ。つまり労働動員は、死へのう回路に過ぎなかった。

1942年3月中旬から7月中旬までの移送第1波では、約11万人のユダヤ人が犠牲となった。1942年7月19日には、年末までにすべての総督府に住むユダヤ人を殺害せよ、というヒムラーの命令が下る。(※5)これに基づいて、あらゆるポーランド・ユダヤ人の組織的殺害が始まった。300万人以上いたポーランド・ユダヤ人のうち、終戦まで生き延びたものは10万人に満たない。

※5 Himmler am 19.7.1942, VEJ, Bd. 9, Dok. 96.

多くのユダヤ人がアウシュヴィッツへ

西欧諸国のユダヤ人は、1942年初頭以降、つぎつぎと通過収容所へと送られ、そこで彼らは東部への移送を待たなければならなかった。1942年6月22日、パリ近郊の通過収容所ドランシーから最初の列車が、1942年6月25日にはさらなる列車が東部に向けて出発した。オランダでは最初の列車が、1942年7月15日、ヴェステルボルク収容所を出発した。ベルギーでは1942年8月4日、最初の移送がメヘレンから東部、正確にはアウシュヴィッツへと行われている。ポーランドのアウシュヴィッツは東部オーバーシュレージエンの都市で、強制収容所に絶滅施設が附設されていた。