※本稿は、ウルリヒ・ヘルベルト著、小野寺拓也訳『第三帝国 ある独裁の歴史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
開戦後、ユダヤ人のドイツ出国は絶望的に
ナチ体制の指導部はすでに1930年代半ばから、ドイツ・ユダヤ人をどのように片付けるかについて考慮していた。指導部は次々と急進化していく方法によって彼らの出国を強要しようとしていたが、一方で彼らの財産も重要であった。事実、ドイツとオーストリアのユダヤ人のごく一部しか、他国へと出国する機会を見つけられなかった。
戦争が始まると、出国はほとんど絶望的となった。しかしドイツの征服政策によって、ドイツの支配地域にいるユダヤ人の数は1941年夏までに何倍にも膨れ上がり、300万人以上へと増加していた。一方ドイツの行政機関は、ドイツが支配するヨーロッパでの、すべてのユダヤ人を含むかたちでの「ユダヤ人問題の解決」を模索し始めた。
「無駄飯食い」として女性と子どもも標的にされた
大量射殺が最初の頂点を迎えたのは、7月7日、ビアウィストクにおいてであり、ここではリューベック出身のある警察大隊が3000人のユダヤ人男性を殺害した。ここでは依然として、ユダヤ人とボリシェヴィズムが結びついているという思考が重視されていた。
ヒムラーが1941年7月末に東部戦線を訪問してから、ソ連における殺害計画の対象は拡大され、今や「女性と子どもも」殺害されるようになった。(※1)この殺戮の主たる根拠として強調されるようになったのは、もはや政治的な理由だけではなく、食糧不足や労働可能性であった。「無駄飯食い」に長期間食糧が与えられるべきではなく、労働不能者を無理やり引きずって連れていくべきでもなかった。
今やその地域全体のユダヤ人が、具体的な根拠があろうとなかろうと完全に殺害されるようになったのであり、そのような事態は初めてのことであったのだ。
※1 Funkspruch SS-Kavallerie Regiment 2, 1.8.1941. 以下に引用されている。Johannes Hürter: Hitlers Heerführer. Die deutschen Oberbefehlshaber im Krieg gegen die Sowjetunion 1941/42, München 2007, S. 558.
服を脱ぎ、峡谷のふちに整列させられ…
同盟国であるハンガリーの部隊が、北部ハンガリーのユダヤ人をドイツが占領しているウクライナへと追放し始めると、多くの親衛隊・警察部隊が国境の地カメネツ=ポドルスク〔カームヤネツィ=ポジーリシクィイ〕にやってきて、8月末には3日間で2万3600人のユダヤ人を射殺した。ここではすでに、選択的な殺害政策から組織的な大量殺戮への移行が完全に生じている。
ウクライナの首都キエフでは、撤退する赤軍が残していった多くの爆弾が9月末に爆発した。それによって街の大部分が炎に包まれ、多くのドイツ兵が殺された。いつものように、ウクライナ住民のうち、ドイツに協力する用意がある人びとは、ユダヤ人にこの攻撃の責任があるとした。