それにたいして第六軍の司令官は、大規模な「報復措置」を開始する。この街に住むすべてのユダヤ人が、9月29日の朝、街のある広場に出頭させられた。その後彼らは、街の外れにあるバビ・ヤールという名の峡谷へ連れていかれた。そこで、彼らは服を脱ぐことを強いられ、集団で峡谷のふちに整列させられ、特別部隊(ゾンダーコマンド)の隊員によって射殺された。1941年9月29日と30日の2日間で、3万3771人のユダヤ人がこのようにして殺害されている。

「ガス室」建設を決めたドイツ指導部の事情

ドイツ指導部にとってとりわけ重要だったのは、東部戦線での損害の急速な増加であった。そうした状況が目の前にある以上、ドイツの支配地域にいるユダヤ人を、かつて想定されていたようにシベリアへと連行して、そこで彼らが死ぬのを待つのではなく、その場でただちに彼らを殺してしまっても、ドイツ指導部にとっては、もはや重大な問題ではなかったのだ。

ただ、ソ連で行われていたような大量射殺は、ドイツの支配地域にいるユダヤ人の数の多さを考慮すれば適切なやり方とは言えなかった。こうした手法は、殺害部隊のメンバーたちの深刻な精神的負担となっているという批判の声が、ますます強くなっていたからだ。

そのためドイツ指導部では、ドイツ国内で障礙しょうがい者殺害のために使われていた別の手法を用いることが決定された。11月初頭には、短時間で多くの人間を殺害することができる、常設の絶滅施設の建設が始まった。最初の絶滅施設は、ルブリン近郊のベウジェツに建設され、そこにT4作戦の専門家たちがやってきた。彼らは「安楽死」計画の中止後、「東部出動」のためにやってきたのだった。さらなる絶滅施設がウーチ近郊のヘウムノ(クルムホフ)につくられた。この2か所でユダヤ人は、T4作戦の手法、つまりガスによって殺されることになっていた。

「紛争を起こした張本人は、命をもって贖わなければならない」

12月12日、アメリカが参戦した翌日に、ヒトラーはナチ党の全国指導者や大管区指導者たちを前に次のように語っているが、ゲッベルスも書き留めているように、その趣旨はいつになく明確なものであった。