「禁止」が強すぎると排除が加速する
「リスクチェッカー」が回避すると謳う種々のリスクは、会社組織の運営上にだけ存在しているわけではなく、現代社会における日常的な人間関係のリスクとも共通する点が多い。
というのも、たとえば発達障害者や精神障害者が二次障害としての人格障害(たとえば境界性・反社会性など、対人関係に著しいトラブルや困難を誘起するもの)にかかっていたとする。それによって対人関係のトラブルとなった際に諫めたり指摘したりすることにも、「差別主義者」のレッテルを貼られるリスクがともなってしまうためだ。
なんらかの弱者(マイノリティ)性に配慮しようとして、マジョリティーに「禁止事項」や「強い社会的制裁」を背景にした包摂を求めようとすると、かえって排除を加速してしまう。「身内」に入れてしまえば、きわめて高い「配慮コスト」「コミュニケーションコスト」が求められるからこそ「門前払いをする」という動機がますます拡大していく。企業社会でも、地域社会でも、個人的な人間関係でも、この流れは密かに拡大している。
お互いの「コストとリスク」を地道に知るしかない
よかれと思って、なんらかの弱者性によって生きづらさを抱えている人に心を痛めて思いを寄せ、政治的・社会的・道徳的優位性を付与しようとする良心的な人は多い。またその優位性を付与する際に生じるコストは、強者側が支払うべきであるとされる。その理屈自体は一理あるだろう。それこそが「多様性」や「寛容性」の根幹にあるものだ。
だが、その善意を堆く積みあげることによって、擁護したいマイノリティーを、いうなれば「無敵の弱者」にまで押し上げてしまうと、状況は不幸にも反転する。周囲に厳しい社会的制裁のリスクを負わせる「無敵の弱者」は、かえって鼻つまみ者になってしまうからだ。
コストを負いきれなくなった人びとは我先にと逃げ去る。「コスト」が「リスク」と同一視される世界では、差別や疎外を再生産してしまうのだ。
遅々として進まないように見える「マイノリティーが生きづらさを感じることのない世界」の実現。しかしだからといって、マジョリティー側に罰を負わせる形でこれを達成しようとすれば、大きな歪みが生じてしまう。現状を一気に打破するような圧倒的解決策は存在しない。
この社会の成員すべてが尊重され、尊厳を保たれ、同じ視線で「多様性」を維持するためには、お互いが生きる上で支払っているコストやリスクを地道に知っていくほかない。迂遠な作業かもしれないが、相互無理解に基づく憎悪や分断を招かないために取るべき方法はこれくらいしかない。「だれもが暮らしやすい社会を少しでも早期に実現するためには、より厳しい基準を設ければよい。市民社会がそのような基準に適応するように、しっかり価値観をアップデートすればよいだけだ」といわんばかりの性急な方向性には懸念を覚える。それは確実に大きな反動を形成するからだ。
急進的な「政治的ただしさ」による社会の浄化は結果的に社会の不安定性を高めてしまう——幸いにも私たちは、欧米圏の先攻事例から貴重な教訓を学ぶことができる立場にある。