「相談された人」は誰にも相談できない

しかしながら、マイノリティーとのかかわりにおいて求められる「配慮」のなかでも「~は(法律・条令により)禁止されます」という枠組みは、相手に最大級のコストを求めるものである。違反者へのなんらかの社会的ペナルティをともなう「コミュニケーションコスト」の負担要求は、人びとにとってはもはやたんなる「コスト」ではなくて「リスク」として見なされるようになってしまう。「配慮」に相当な負担感を感じていた人びとはいうまでもなく、これまでなら自然と「配慮」を実践できていた人にすら、マイノリティーとのかかわりにためらいを生じさせてしまうほどであるだろう。

この条例にかんしていえば、たとえばLGBT当事者からなんらかの相談を受けたとして、相談を受けた側の人にはその瞬間から「意図しようがしまいが絶対に口外してはならない、違反者にはなんらかの社会的制裁をともなう、禁じられた行為を生涯にわたって抱えるリスク」が生じてしまう。かりに自分がその禁則を堅守していたとしても、ほかのだれかが口外してしまい、しかも「アウティング」を行ったのはだれかが不明確な場合、自分にも「条例違反者」としての嫌疑がかかることになる。いったいだれがそのようなリスクが発生しうるコミュニケーションに率先して応じるだろうか。

「疎外する」のが最適なリスク回避になってしまう

あるいは、LGBT当事者の人から「望まない性的かかわり」を求められた場合においても、家族や知人など周囲に相談すると「条例違反」に抵触しうることになる。現時点では結局のところ、この条例に抵触せず、社会的ペナルティのリスクを引き受けない最善の方策は「LGBTとかかわらない、近寄らない、それとなく疎外する」になってしまう。

条例成立に携わった人びとの願い——「LGBTがいまよりも生きづらさを感じることなく、社会的に尊重され、尊厳を守られ、なおかつ包摂されてほしい」——とはまったく逆の結果が市民社会に生じてしまいうるのだ。これでは本末転倒である。