「大人の発達障害」でも同じことが起きている

「高まるコミュニケーションコスト」の問題はLGBTにかぎらず、他の社会的弱者に対しても当てはまる。いまその議論の最前線の一例が「(大人の)発達障害」だろう。

大人の発達障害は、大学進学や就職、恋愛・結婚などがきっかけとなって見つかりやすい。高校までは時間割など決められた日課があり、教師や級友など限られた人間関係の中で過ごすため、発達障害の特性がカバーされ、個性として許容される部分も少なくない。しかし、大学では自身で時間割を組み立てて行動しなければならず、「クラス」がなく友人関係も多様になる。社会人になると人間関係はさらに複雑化し、周囲に合わせて空気を読み取るなど社会への適応が必要となり、生活に支障を来すのだ。
(時事メディカル『大人になって気付く発達障害 周囲が一緒に支援模索を』(2020年5月31日)より引用)

「発達障害」という概念が人口に膾炙かいしゃするにつれ、発達障害者に対する「理解」と「配慮」を求める流れが全社会的に生じてきた。

もちろんそれ自体は、社会的に大きな意義をもつ前進、あるいは救済になったという側面もある。「発達障害」という障害が広く世に知られる前は、こうした障害を持つ人は障害者だとは思われず「仕事の出来の悪い人」「頭の回転の鈍い人」「コミュニケーションができない人」などとレッテルを貼られ、爪はじきにされてきたからだ。

「差別者になるリスク」を回避する社会

しかし同時に、発達障害が社会的弱者としての顕著な意味合いを持つ「障害」として医学的に規定され、福祉の枠組みに捕捉されることによって、発達障害者にありがちな「コミュニケーション特性」あるいは「認知的・処理能力的偏り」を、実社会(とくに職場)で指摘したり批判したりすることは「障害者差別」にあたるものとみなされる風潮も強くなった。

むろん「差別」がよくないことはだれでも合意する。だからこそ、自分が「差別者」という社会的レッテルを貼られるようなリスクは極力回避しようというインセンティブが高くなってしまうのだ。たとえ攻撃的・差別的な意図がなかったとしても、発達障害者に対してコミュニケーションや仕事での付き合い方を誤れば、「差別者」「抑圧者」となってしまう蓋然がいぜん性が高まっていくにつれ、最初から近づかない——という選択肢の誘惑が強くなる。

「差別者は、いかなる理由があろうがぜったいに許されるべきではない」という政治的ただしさが全社会的に強まれば強まるほど、周囲の人にとっていわば「踏んではいけない地雷」の数も多くなってしまう。その結果、一般の人びとにとっての最善手は、アウティング禁止条例と同様に「そのような『踏んだら差別主義者として扱われかねない地雷』を多く抱えている人とは、そもそもお近づきにならないようにする」となってしまう。