(2)欺瞞的パターナリズム:双方向で議論するが……

前述の古典的パターナリズムの持つ限界を克服するために、よりインタラクティブな、すなわち教師と学生や学生同士が双方向的な議論をしていくスタイルが積極的に導入されることになります。たいてい少人数のゼミナール形式で、活発な発言が評価に加味されたり、学生に多くの発表の機会が与えられたりします。見るかぎり、日英の多くの大学の文系学科では、前述の講義形式とこのゼミナール形式を併用する方式が今日では一般的だと思います。

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双方向な授業形式として最も典型的なものは、かの有名なハーバード大学マイケル・サンデル教授の「白熱教室」でしょう。重たい、具体的な、いかにも意見が分かれそうな問いを与え、学生に考えさせ、意見を自由に発言させ、最後に教授がエレガントに「まとめあげる(wrap up)」授業です。

軽妙なやりとりのなかで笑いもこぼれ、参加意識も高まり、最後にはキレも深みもある教授のまとめにうっとりします。教授にものすごい力量がなければ不可能な素晴らしい授業です。特に大人数の教室で双方向なやりとりをマネジメントするのは大変な所業です。ちなみに東大でも、僕がいた十数年前から一部の人気教授はまさにそのような講義を展開していました。どんな突飛な学生の発言にも柔軟に対応するさまは大変鮮やかでカッコよく、みなが先生をキラキラとした憧れの目で見つめていたのをよく覚えています。

賢く博識な学生ほど発言を控えがちになる

しかし、これらのインタラクティブな講義・ゼミは、確かに自分たちで考えさせる段階を取り入れてはいますが、投げかける設問文をコントロールすることで学生の回答の行方も計算できますし、学生の回答が過去の偉大な学者たちのたどった思考の足跡の範囲を出ることはほとんど不可能です。結局のところ、双方向のやりとりによって参加意識を高める仕掛けはインプットの有効な補助にすぎない、という言い方もできると思います。マイケル・サンデルの白熱教室であれば、学生に思考や発言を促していても、創造性や独自性を育むというより、哲学史の歩みを追体験させているにすぎない「出来レース」的な構成であるとも言えると思います。

そして、よく予習してきた学生や、勘や洞察力に優れた学生からすれば、白熱教室の問いにはこう答えればこういう限界があり、反論にはいくつかの立場があって、それぞれはこう答えるだろうから云々、と論理的な展開の先が「見える」ので、よりまともな発言をしようとすると、1回の発言が長くなってしまいます。極論すれば、最後の先生の「まとめ」を代弁してしまわねばならなくなります。

裏を返せば、迂闊で断片的な発言ほど、先生の授業意図に沿う発言に見え、賢く博識な学生ほど発言を控えがちになるのではないでしょうか。そう考えると、あの大人気講義の「白熱」は、ある意味では、なんだか全体として仕組まれた茶番に見えてくる感すらあります。アウトプットを促しつつもアウトプットを訓練しているわけではなく、「押し付けてはいないよ」という体を取りつつ計算ずくの誘導があり、自分の頭で考えさせているようであっても、創造性や個性の育成よりはあらかじめ用意された風呂敷の中に包み込もうとしているとも言えます。そういった点では、なんだか欺瞞的にも見えるので、僕はこれをあえて揶揄的に「欺瞞的パターナリズム」と呼びたいと思います。

「理性の目覚めを促す」ことだけで十分なのか

さらに、こうしたインタラクティブ系講義ではたいていの場合、教授はその問いに対して自分の答えを述べません。述べたとしても、重要なのに世間一般で見落とされがちな論点や相対化されるべき固定観念を指摘したりすることにとどまりがちです。自著や講演など他の機会においてはともかく、授業内では、整理したり「まとめ」たりはしても、総合的な「オレの答え」をあまり言いません。なぜなら、こうした授業は、暗黙のうちに前提にしていた概念や偏見の存在に気づかせること、社会通念を疑うこと、すなわち懐疑主義に目覚めさせることを主眼にしているからです。この姿勢は、確かに、大衆の中に思考停止しない人間を増やし、主体的な知性を啓蒙したりする市民教育において、非常に効果的だし、社会的な意義は大きいと思います。また、リサーチ結果の裏付けを得て自説を主張する社会学や経済学等とは異なり、政治学、哲学、歴史学など解釈をめぐる類の学問においては、懐疑主義こそ永遠の本質と言えるのかもしれません。

しかし、この懐疑主義への覚醒を主眼とした欺瞞的パターナリズム教育は、すでに十分懐疑的な知性に対するエリート教育という点ではどのくらい機能するでしょうか。特に、高学歴の人材ほど組織でリーダーシップを担わされがちな世相にあって、最高学府が施すリーダーシップ教育としては「理性の目覚めを促す」ことだけで十分でしょうか。僕は、リーダーに必要な、ある結論に必ず付随する限界や欠点を認識しながらも決断を行うチカラ、そしてその負の側面をも引き受けて何とかマネジメントしていくチカラは、懐疑主義に覚醒するだけでは養えないように思われてなりません。

世の中に真実なんてないことは常識です。最高学府は、鋭い評論家を輩出するばかりでよいのでしょうか。「オレの答え」を出す訓練はしなくてよいのでしょうか(もちろん、マイケル・サンデル教授の「白熱教室」はインプット効果において非常に優れた授業だと思いますし、全講義を受講するなかで、決断力が育まれる部分もあるでしょう。また、懐疑主義には、決断をしないという決断があるという言い方もできます。そもそも、ハーバードにはほかに決断力を養う授業がたくさんありそうです)。