(3)ネオ・パターナリズム:「オレの答え」も言う

この欺瞞的パターナリズム教育が必然的に持つ、決断する姿勢は示さないという限界に対して、僕がオックスフォードで今受けている教育はひとつの回答を出していると思います。オックスフォードでは東大やLSEと同じように、古典的なマスプロ講義のインプットもあり、学生の発表や自由な議論もある少人数ゼミナールも行われています。しかし、最大のポイントは、オックスフォードの教授は、「まとめる」際に「オレの答え」も言う点にあると思います。

たとえば社会学の授業では、「ジャーナリストと社会学者では何が違うか」という問いが教授から出されました。学生間でひとしきり議論があったあと、教授は最後に、「なるほど。それぞれもっともだ。ちなみに私は、その違いは、“理論”を志向するかしないかにあると考える」とはっきり述べました。また、「社会学とは何か」という議論においても、同様に議論したあと、「私は、社会を“描写する(represent)”のが社会学であると考えている」と添えました。

この手の大きな問いかけにおけるまとめでは、欺瞞的パターナリズム教育では、誰々はこう定義しており、彼はこう定義しているなどと、あれこれ紹介してそれぞれ品評することにとどまりがちです。そういう授業に慣れすぎていた僕にとって、オックスフォードのやり方は、一周回って衝撃的でした。なので、そのときはつい、教授に「では、先生ご自身は~、とお考えなのですね?」と、復唱して聞き返してしまったりしました。すると教授は再度、「そうだ」とはっきり繰り返しました。

「引用」とは演出戦略である

また、修士論文における個人指導(チュートリアル)においても、教授は僕の長年の悩みに「結論」を与えてくれました。論文を書くときには、持論の根拠を示したり、研究の系譜をなぞるために他の論文の「引用」をしますよね。先行研究を検索していると、たくさんの論文がヒットしますが、遠くの図書館にしかなかったり、時間がなかったりして、読みきれない論文も多数出てきます。なので、僕はずっと、読みきれなかった論文の中に、引用するのにもっとふさわしい論文があったのではないか、と後ろ髪を引かれる思いがいつも拭えませんでした。

このことは十数年前にも東大で教授に相談したことがあったのですが、その時は、「見切りだ」と言われて、うわあ曖昧だなあ、そんなものかなあ、しかしそんな恣意的なことでいいのかなあ、とその後も悩んでいました。また、引用するのはなんとなく肩書や知名度において「偉い」学者の論文の方がよさそうな風潮(?)も感じていました。でも、知的作業はそんな権威主義的なことでいいのか。非常に優れていると思えたどこかの学部生のエッセイを引用するのは、なぜダメな(感じがする)のか、確たる理由がわかりませんでした。

そこで、このことも現在のオックスフォードでの指導教官に相談してみました。そうしたら、

「よくわかる。ならば、こう考えろ。どの文献を引用するかは、自分の論文をどのように見せたいかという演出戦略によって決めろ。自説に社会的影響力を持たせたければ、権威的な論文を引用すればいい。イノベーティブな論文に見せたければ、まったく異なる様々な分野の論文を引用すればいい。若手の研究を持ち上げたいのであれば、若手の論文を取り上げろ。また、すべての論文には締切がある。しょせんすべての先行研究を読むことはできない。だから、読めない論文があるのは仕方ない。大事なことは、その業界で“有名”な論考への言及を漏らさないことだ。どれが最低限言及されるべき文献かを教えるために指導教官がいる」

とのことでした。

この「引用とは演出戦略である」という断言によって、僕の(少々お恥ずかしい)積年の悩みはスッキリ解消しました。なぜ納得できたのかというと、長い迷いからくる疲労感や、先生への人格的尊敬といった理知的ではない要因も大きかったかもしれませんが、「演出戦略である」という定義が純粋に腹落ちした、というのが率直なところです。とりあえず、しばらくはそう思って生きていこう、と思えました。

引用とは何か。もちろん、世の中には他の見解もあるでしょうし、どの見解も不完全なものでしょう。しかしキリがありません。どこかで最も妥当そうな結論を選ぶ判断を下す必要があります。このオックスフォード大教授は、懐疑主義の迷路の中で目安を失った僕に対して、少なくとも当面は、その責任を負ってくれたわけなのです。