「オレの答え」を持つオトナたちの背中

現代は、インターネットで断片的知識のみならず、ある程度整理された知識もかなり容易に手に入る時代になりました。しかし右派なり左派なりがいろいろな意見を述べ合ってはいても、バラバラに都合のいいことを述べ散らかしていたりして、それぞれの言い分を丁寧に噛み合わせて構築された議論を見つけることは、相変わらず難しい現実もあります。

ゆえに、飽和する情報の処理の仕方(ネット・リテラシー)、すなわち懐疑主義の重要性が巷で主張されることも増えてきました(ですから、欺瞞的パターナリズムによる教育の需要は高いわけです)。

と同時に、さらにその先で、「オトナ」がより妥当な(暫定的)結論を下すことの意義や難しさもまた、輪をかけて増していると僕は思います。しかし、結論を出すチカラはどのように養えばいいのか、高等教育はそれを養っているのか、養っているとしたらどのように養っているのか、そもそも高等教育で養うべきなのかという問題意識から、今回こんな3段階仮説を考えるに至りました。

そして最後に、パターナリズムの概念を借りて教育を考察した余勢を駆って、世の父性性一般にまで話を少し押し広げてしまいたいと思います。かつての日本には、子を想うがゆえに問答無用に結論を押し付けてくる「昭和な頑固オヤジたち」というステレオタイプがあったと思います。まさに文字どおりのパターナリズムです。そして家族ドラマでは大概、オヤジ側が(なぜか!)口下手すぎたりして、若者はそれに最初は反発するものの、背中から学んだり後から真意を理解したりするなかで、「オトナ」のバトンが後進へと受け継がれてきた、といった美談の典型が見受けられたように思います。

素敵な「オトナ」は日本社会に足りているのか

他方で、時代も下るなか、家庭内コミュニケーションの欠如や日本経済の失速とともに、居場所や自信を喪失したオヤジたちが増える一方、混沌を生き抜いた戦中・戦後直後派は後退したりと、団塊世代、ポスト団塊世代、バブル世代へと世代交代も進んで、現役のオヤジたちのメンタリティにも世代の原体験の違いに起因する移り変わりが見られます。もちろん、たまたまパターナリズム、オヤジ、オレの答え、といった、男性的な用語が並びましたが、カタカナを用いていることからきっとご理解いただけるように、この議論は本来、性別を問わないものだと思っています。

男女・父母いずれにせよ、未熟な若者と正面から向き合ったコミュニケーションを取り、自分で学ぶチカラを培わせつつも、要所で説得力のある「オレの答え」をガツンと示し、決断者の姿を見せてくれる素敵な「オトナ」は今、日本社会に足りているのかな……と、僕は曇天の続くイギリスの冬空の下、とめどなく悶々と考えてしまうわけなのです。

みなさんの周りには、そんなオトナはたくさんいらっしゃるでしょうか。そして、みなさん自身は、そういうオトナでしょうか。

橘 宏樹(たちばな・ひろき)
官庁勤務。2014年夏より2年間、英国の名門校LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス)及びオックスフォード大学に留学。NPO法人ZESDA(http://zesda.jp/)等の活動にも参加。趣味はアニメ鑑賞、ピアノ、サッカー等。twitterアカウント:@H__Tachibana
(写真=iStock.com)
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