「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」の世界へ
國分功一郎の『中動態の世界』は、能動態でも受動態でもない「中動態」という文法に着目する。なぜか。それは「能動/受動(する/される)」という区別でしか物事を考えられない私たちの、思考の凝りを解きほぐす必要があるからだ。
実際、日常のなかに、能動とも受動とも言えないふるまいを見つけることは難しくない。國分は「歩く」というごく基本的な行為ですら、能動という概念だけでは説明できないという。
歩く動作は、身体各部の複雑な連携がなければ実現しない。歩ける環境や条件も整備されていなければならない。しかも私たちは、自分の思いどおりに身体を動かして、歩いているわけではない。これを能動というのは無理がある。
<「私が歩く」という文が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった>
にもかかわらず、私たちは、能動と受動の区別を疑わないし、その区別は「われわれの思考の奥深くで作用している」。責任を問う場面では、自分の意志でやったのか、やらされたのか、という二分法が前面に出る。つまり、能動と受動の区別は、意志や責任を求める思考と強く結びついている。
そこで著者は問いかける。いったい何が、能動と受動の区別を発生させているのか、と。その手がかりとして注目するのが「文法」だ。
<われわれは英文法などを通じて態について学ぶ。われわれが教わるのは、態には能動と受動の二つがあり、そしてその二つしかないということだ>
習いましたねぇ。英語の授業では「次の文を受動態にせよ」なんて問題をさんざん解かされた。“He painted these pictures.”を“These pictures were painted by him.”に転換したりとか。
しかし著者は、フランスの言語学者エミール・バンヴェニストの知見を紹介しながら、能動態と受動態の対立は普遍的でも必然的でもない、という。そもそも、多くの言語にこの区別はないし、区別のあるインド=ヨーロッパ語族でも、その区別は後世になって現れた新しい文法規則だからだ。
そして、決定的な事実が紹介される。「中動態」の存在だ。「もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった」と著者は解説する。