「尋問する言語」が人々の自由を奪う
ここから、著者の「中動態の世界」への長い旅が始まる。その旅は、推理小説のように、謎解きに満ちた旅になっている。そもそも中動態とは何なのか。なぜそれが言語の表舞台から消えてしまったのか。中動態は、世界をどのように表現するのか。
その旅のなかで、読者は著者とともに、アリストテレス、ハンナ・アーレント、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ハイデッガー、ジル・ドゥルーズ、スピノザなど、さまざまな哲学者と出会うことになるだろう。実際、同書の後半は「中動態の観点から書き直される哲学史の序章に向けたノートのようなもの」として書かれている。
「中動態の世界」への旅は、スピノザの哲学、アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの遺作となった中編小説『ビリー・バッド』の読解でひとまず終わる。そこには、能動と受動の区別では見逃してしまう「自由」になるための道筋が感動的に示されている。
本書のなかで、著者は、能動態と受動態という対立を際立たせる現在の言語を「尋問する言語」と呼んでいる。
<その言語は行為者に尋問することをやめない。常に行為の帰属先を求め、能動か受動のどちらかを選ぶよう強制する>
「尋問する言語」ばかりが交わされる世界は、とても窮屈で、人を萎縮させてしまう。この尋問する言語は、行為の責任を問う場面では「お前が自分の意志でやったのだろう?」と自由意志を呼び出さずにはいられない。しかし、それはまったく「自由」ではない。著者が言うように、「自由を追求することは自由意志を認めることではない」のだ。
この連載との関連でいえば、能動と受動の区別もまた、強烈なバイアスにほかならない。僕もまた、数え切れないくらい、尋問する言語で考え、話してきたのだろうと思う。
「尋問する言語」が幅を利かせる世界は、「尋問する世界」になってしまう。実際、いまの世界を見渡せば、いたるところで「尋問」に満ちている。
その不自由を認識し、自由になるための道筋が「中動態の世界」を知ることだと著者は言う。本書を、愚かさを増す世界に抵抗するための“希望の書”と考えるゆえんもそこにある。
次回は、東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』を取り上げよう。