斎藤哲也さんの連載「補助線としての哲学」。3回連続で番外編「いま読むべき3冊の思想書」をお届けしてきました。最後となる第3回は千葉雅也さんの新著『勉強の哲学 来たるべきバカのために』を取り上げます。斎藤さんはこの3冊について「愚かさを増しつつあるこの世界に抵抗するための“希望の書”」といいます。その理由とは――。

深く勉強するというのは、ノリが悪くなること

人文書の世界でこの春、「祭り」のような盛り上がりを巻き起こした注目の3冊を紹介する番外編。最後の1冊である千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために』は、ざざっと頁をめくると、人文書とは思えないほど改行が多く、ビジネス書や自己啓発書のように重要な語句やフレーズは太字になっている。うっかり書店のビジネス書の棚に「誤配」されていても、何の違和感もない。

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』千葉 雅也 (著)文藝春秋

が、その軽薄そうな装いとは裏腹に、中身は濃密な哲学的勉強論が展開されている。たいていの勉強指南本は、学生対象であれ、社会人対象であれ、「勉強することはいいことだ」という前提を疑うことはない。

ところが本書はのっけから、こんなことを言う。

<深く勉強するというのは、ノリが悪くなることである>

<勉強とは、自己破壊である>

このあたりを読むだけでも、本書が、いわゆる勉強指南本とはまったく異質の内容であることが伝わってくる。では、ノリが悪くなったり、自己破壊をしてまで勉強することの目的は何か。それは、これまでのノリから「自由になるため」だという。

<私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められてきた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです>

そこで本書は、自由になるための勉強として「言語」に焦点を定める。なぜか。「言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆に、ノリに対して『距離をとる』ためのものでもある」からだ。

言語は、人を縛りもするし解放もする。だから、言語の解放的な力を知り、それを自由に操作できるようになれば、自分を縛る環境のノリから外れることができる。そんな言語偏重になるための勉強を、著者は「ラディカル・ラーニング」と呼んでいる。

なにやら抽象的な話に聞こえるかもしれないが、そうではない。「英語をちゃんとやれば、英語的なノリへの引っ越しが起こる」というように、対象は何であれ、深い勉強は、言語偏重になるラディカル・ラーニングへと通じているのだ。