「教養は武器になる」。『読書は格闘技』の著者、瀧本哲史氏はこれまでの著作でそう主張してきた。では教養を培うには何をすべきか。そのひとつが読書だ。著者の語りは絶対ではない。内容を疑い、思考を深めるのが、真の読書である。そのためには格闘する価値のある「良書」を選ぶ必要がある。賢人は、どう選び、どう読むのか──。

なぜリーダーたちは『君主論』を愛するか

よく年長者は「古典を読め」と言います。しかし、そう言う人ほど古典をきちんと読めていません。私は新著『読書は格闘技』(集英社)で、本当に役立つ読書術を解説しました。今回はそこから「古典」の読み方を紹介しましょう。

『読書は格闘技』瀧本哲史(集英社、本体価格1000円+税)

古典を理解するには、その書がどのような人物によって、どのような文脈で書かれたかを知ることが重要です。ここではマキアヴェリの『君主論』を例にとります。『君主論』は、タイトルはよく知られているにもかかわらず、実際にはあまり読まれていないうえ、評判の悪い本です。しかし古今東西の多くのリーダーが愛読書としてきました。なぜでしょうか。

著者のマキアヴェリは、イタリア・フィレンツェ共和国の官僚でした。大学は出ていませんでしたが、卓越したラテン語能力を買われ、運良く任官できました。ところが15世紀末のイタリアはいわば戦国時代。突如スペインの攻撃を受けたフィレンツェでは、クーデターが起き、マキアヴェリは騒ぎに巻き込まれ、冤罪で職を解かれ、収監されてしまいます。

そんな中、メディチ家が新国家を建設するという噂を聞きつけたマキアヴェリは、新国家と君主の在り方についての書物を献呈することで再就職しようと、半年足らずで『君主論』を書き上げます。『君主論』の評判が悪いのは、反道徳的なフレーズがちりばめてあるからです。第18章には「賢明な君主は信義を守るのが自らにとって不都合で、約束をした際の根拠が失われたような場合、信義を守ることができないし、守るべきではない」とあります。しかし時代背景を知ると、もう少し違う見方ができるのです。

「君主は信義を守るべきではない」というフレーズの後には、「もし人間がすべて善人であるならば、このような勧告は良くないであろうが、人間は邪悪で君主に対する信義を守らない」という理由が展開されています。マキアヴェリの身に降りかかった事実を考えれば、この言葉は重みを増します。

現代にたとえるならば、ベンチャー企業で社長の参謀役をやっていたが、優柔不断なトップが夜逃げをして、債権者に詰め寄られたという経験をもつ男が、厳しい環境でも生き抜けるリーダーを渇望して書いた本。それが『君主論』という本なのです。