▼自由がなくなる

自由にはさまざまな種類があるが、そのいずれも結婚は奪ってしまう。ある意味ではその通りである。たとえば結婚すれば自由に金が使えないのはたしかである。だが、自分の小遣いを増やしたいならもっと稼げばいい(わたしがいつも妻に言われていることだ)。月収を10万円増やせば、交渉次第では、1カ月あたり500円から1000円は小遣いを増やしてもらえる可能性がある。

また言論の自由もなくなるのはたしかである。必要以上にしゃべると逆鱗に触れる恐れがあるからだ。だがそれだけことばを大事に使う習慣が身につくことを忘れてはならない。だいたい現代人はことばを粗末に使いすぎているのだ。できれば平安時代の貴族のように、男女の間では和歌でしかやりとりしないようでありたいものだ。

忘れがちだが、沈黙する自由もない。妻に質問されて何も答えられずに黙っていると「何か言いなさいよ!」と叱られるし、妻の料理を食べて黙っていれば批判と受け取られるから、黙って食べることは許されない。食べた感想は「おいしい」とその同義語しか認められない。服などを買いにいって、「どっちが似合う?」と聞かれたときも、口ごもってはいけない。

「どっちも似合うから2つ買えば?」と言わなくてはならないらしい(それを知ってから、そう言おうと思っていたら、妻は1度もわたしの意見を聞かない。わたしに聞いても意味がないと思って相談なしに買っているのだ)。

話す自由はないかわりに、話を聞く自由は十二分に保証されており、つまらない話をイヤというほど満喫することができる。退屈だと思うかもしれないが、実はスリル満点だ。長々と聞かされるうちに真剣に聞かず、適当にあいづちを打ってすませるようになるが、あいづちを間違えれば激怒されるし、後で「聞いてなかったの? あのときバッグのお金を用意しておくと言ったじゃない!」と言われるから、気が抜けない。どこに地雷が埋まっているかわからないスリルがあるのだ。慣れてくれば、脳の4分の1を使って話を聞く能力が身についてくるから、会社の会議などに応用できる。

結婚すれば行動の自由も制限され、趣味やギャンブルにハマることは許されなくなる。だが、社会の中にいるかぎり、独身でも万引や空き巣などの行動は規制されるのだから、不自由なのは程度問題である。そんなに自由に行動したいなら、無法地帯で暮らして被害者になる覚悟があるのか?

行動の自由が奪われたら、冤罪で刑務所に入ったと思えば問題ない。しかもその刑務所の運営費は自分が出していると思えば気も安らぐはずだ。安らがなくても、自分は無実だと思っていられるから心配はいらない。

そもそも家庭にも人生にも安らぎを求めてはいけない。安らぎは地上にはない。安らぎを人生に求めるのは、魚を買いに八百屋に行くようなものだ。安らぎは死んだ後の楽しみにしておけばよい(地獄に落ちてはいけない)。