「やっかいだ」と感じるのは認知負荷がかかるから
明日に控えた重要な商談に備えて、どう自社製品のアピールをしようか、最終的なプランを練っていたとします。そんなとき、部下から「顧客のB社からクレームが入りまして、どう対応したらいいのかわかりません」と相談を持ちかけられたとしたら――。上司のあなたの頭の中には、「忙しい最中に、何でやっかいな話を持ってきたんだ」「面倒だな。まず自分で解決策を考えてほしいよな」といったネガティブな思いが、浮かんでくるのではないでしょうか。
もしそうだとしても、そのことを非難するつもりではありません。脳科学の見地からすると、そう思ってしまうのは、むしろ自然なことなのですから。ふだん部下の声にしっかりと耳を傾けている上司であっても、時に「やっかいだ」「面倒だ」と感じてしまう理由は、オーストラリアの教育心理学者であるジョン・スウェラーが1980年代に提唱した「認知負荷理論」によって説明することができます。
「認知」とは、脳の中に入ってきた情報に、どういった意味があるのかを知ることです。脳の中に入ってくる情報は多種多様であり、認知するまでのプロセスで脳に掛かってくる「負荷」の性質も変わってきます。一方、人間が脳の中で一度に処理できる情報量には限界があって、そのことと認知における負荷との関係を解き明かしたものが、認知負荷理論です。
脳内の作業台「ワーキングメモリ」の役割
いま、脳の中で一度に処理できる情報量には限界があるといいましたが、その処理に関わっているのが「ワーキングメモリ」です。わかりやすく言うと、脳の中にある一つのテーブルのイメージです。そのテーブル自体がワーキングメモリであり、よく「作業台」とか「机」と表現されるように、その上に本や書類を広げて、何か作業を行なうのがワーキングメモリの役割です。
たとえば、買い物に出かけるとき、買いたいモノに合わせて行く店を決め、そこに行くまでの交通手段や道順を調べたり、どれくらいお金を用意しておいたらいいのかを考えたりします。そうした一連の処理を脳の中で行なっているのが、ワーキングメモリなのです。
コンピュータにたとえるのなら、ワーキングメモリは、デスクトップ上の作業を司っているRAM(ランダムアクセスメモリ)に近い役割を担っています。つまり、ワーキングメモリ上の情報は、保存していない書類を置いて作業をするような状態です。パソコンの電源を切らない限り、デスクトップ上に置かれたままになっている書類は、スリープしたくらいでは消えないのですが、作業が終わってゴミ箱にぽいと捨てたり、保存しないで電源を切ったりすると、消えてしまいます。
私たちのワーキングメモリにある情報も、眠ったくらいでは消えませんが、仕事が終わり注意をそらしたり、意識しなくなると、電源を切った状態と同様になり、消えてしまいます。そして、パソコンにおいてRAMの容量が決まっているのと同じように、人間のワーキングメモリの容量も、あらかじめ決まっていると考えられています。
パソコンのRAMは、より容量の大きいものを買って上限を増やすことができますが、脳内の作業台であるワーキングメモリのスペースは、その容量が低下することはあっても、増やすことは難しいとされています。
ワーキングメモリの限界である容量を表した言葉に「マジカルナンバー7(セブン)」があります。
これは、単純で意味をなさない数字などの場合、せいぜい5個から9個くらいしか覚えられないことを指摘したものです。その5~9個の真ん中を取ると7個になることから、マジカルナンバー7といったネーミングがされています。かつては通話相手の電話番号をいったん覚えてから電話をかけていましたが、初めて耳にした市内局番からの電話番号を、そのときは覚えていられたのも、ワーキングメモリの許容範囲だったからなのです。最近では、何らかの意味のあるまとまりの情報だった場合は、4つ程度とされてきています。
フル稼働の脳にとっての面倒な相談を理解する
では、冒頭の上司のワーキングメモリは、どういった状態だったのでしょう。すでに皆さんが察しているとおり、テーブルの上に情報を乗せられるだけ乗せて、処理作業を行なっていたのです。ワーキングメモリは、まさにフル稼働の状態でした。そんなときに、横やりを入れるかのように、部下が相談をもちかけてきたら、「面倒だ」と感じてしまうのも、仕方がないように思われます。そして、こうしたことを理解しておくと、どんなときに声をかけるのを避けるべきなのか、自分がこのような状況のときにどのような状態になりやすいのかを知って、対策を講じやすくなることから、職場内でのスムーズで円滑なコミュニケーションを促進していくのに役立つはずです。
職場での認知負荷との賢い「付き合い方」
前出のスウェラーは自説の中で、認知負荷を3つに分類しています。
1つ目は「課題内在性負荷」です。これは、課題(=情報)そのものが持っている負荷のことで、仕事などで何かの情報を処理する際にはついてまわる本筋といえるものです。内容が長大だったり、複雑で難解だったりすることで高まってくるものです。2つ目は「課題外在性負荷」で、何かノイズが入ってきて気が散ってしまうような、外部からかかる負荷のことです。第1話で解説した、デジタル機器を使っているときのお知らせや広告などによって課題に集中できなくなってしまうようなことも、この課題外在性負荷に含まれます。これら内在性と外在性の負荷は、処理作業を行なうワーキングメモリに対してマイナスの作用を持っているといえます。
そして、3つ目が「学習関連負荷」になります。目の前の課題を理解していく際にかかってくる負荷であり、少しかしこまった言い方をすると、「脳がスキーム(世界を理解するための枠組み)を構築するときに発生する負荷」になります。このスキームの蓄積は、認知負荷への耐性を高めてくれますし、人間が日常生活を営んでいくのに必要な負荷と言えるものです。
この3つの認知負荷のうち、冒頭の上司に「やっかいな話を持ってきて」と思わせてしまったのは、他ならぬ課題内在性負荷です。「トラブル」という言葉を聞いたとたん、上司は頭の中で「現状の把握」「原因の究明」「いまできる対応」「信頼回復に向けた方策」など、瞬時に自分がしなくてはならないことに思いを巡らせます。顧客とのトラブルは、それだけ複雑で難解な課題であり、そのことを学習関連負荷の積み重ねとも言えることを長年の経験をとおして理解している上司は、無意識のうちに「やっかい」と捉えてしまったわけです。
マイナスの作用をもたらす課題内在性負荷と課題外在性負荷のどちらも、職場において100%排除することは極めて難しいと言わざるをえません。そうであれば、大切なのは「付き合い方」です。課題外在性負荷への対応については、第1話で述べたことでカバーできるでしょう。一方の課題内在性負荷との付き合い方は、次回第3話で見ていきましょう。


