ノーベル賞社員を出した創業150周年の島津製作所の「新商品」
京都の島津製作所が今年3月末に創業150周年を迎えた。
同社は主に分析計測機器を手がけ、連結売上高5390億円(2025年3月期)、グループ社員数1万4481人を擁するグローバル企業である。2002年には社員の田中耕一氏(現エグゼクティブ・リサーチフェロー)がノーベル化学賞を受賞し、一躍注目を浴びた。
蓄電池やレントゲン機器などを生み出した創業者のアントレプレナーシップ(起業家精神)は、もっか開催中の大阪・関西万博でも見ることができる。
京都には京セラ、任天堂、宝酒造、ワコール、オムロン、村田製作所、ロームなど名だたる大企業が存在する。帝国データバンクの調査(2024年)では、京都における創業100年を超える「老舗企業」の出現率は5.35%(全国平均2.75%)だ。これは、全都道府県の中でトップである。花札やトランプ製造に端を発する任天堂は1889(明治22)年の創業だ。
島津製作所の創業は、その任天堂よりも古く1875(明治8)年。京都・木屋町二条での教育用理化学器械の製造が始まりだ。だが、同社の前身はもっと古く、幕末にまで遡る。島津製作所を創業した島津源蔵(初代源蔵)は、元は西本願寺に出入りしていた仏具職人であった。しかし、明治維新時の「法難」が、島津製作所創業のきっかけとなった。
法難とは明治新政府による宗教政策が元で巻き起こった、廃仏毀釈のこと。寺院や仏像などの破壊行為や仏教的慣習の廃止などが全国的に広がった。江戸時代には9万の寺院が存在したと言われているが、廃仏毀釈によって、明治初期のわずか10年足らずで半分の4万5000カ寺程度にまで激減した。
たちまち仏具業は、経営危機に追い込まれてしまった。仏具を作るどころではなく、次々と没収、破壊されていったからである。伽藍や仏具からは金属が取り出され、溶かされて建材や兵器などにされていった。
初代源蔵が手がけた仏具もほとんどが消失したと見られる。現存が確認できるのは2点のみ。京都市上京区の引接寺の大鰐口と、東山区の東福寺最勝金剛院の九条兼実の廟所である八角堂の宝珠である。
仏教受難の時代に加え、折しも京都では東京に都が遷って、人口が激減していた。有史以来の危機的状況に見舞われた京都の建て直しを主導したのが、当時の京都府大参事・槇村正直だった。槇村は状況を打開するには人材教育をすすめ、産業を振興させていくしかないと考えた。特に教育事業を最優先にすることを目指した。
そこで1869(明治2)年、京都市内に64校もの小学校を一気に開校させたのだ。全国に学制が敷かれる3年前のことである。翌年の1870(明治3)年には、科学技術の研究・教育を目的にした「舎密局」と呼ばれる研究所が開かれる。初代源蔵は舎密局に出入りし始め、西洋の科学技術を習得した。
初代源蔵の、時代を捉える目は鋭かった。舎密局で学んだ技術をもって、ほどなく理化学機器の製造に着手した。学校が整備されると、理科の実験器具や人体模型も必要になる。人体模型は、かつての鋳物仏具製造で培った技術が転用された。
ここに今の島津製作所の第一歩が踏み出されたわけである。その人体模型の製造ノウハウはその後、大正期以降の洋服の需要拡大に乗って技術転用され、マネキン製造へと繋がっていく。現在、わが国のマネキン会社の多くが島津製作所を源流としている。
その他1877(明治10)年12月には、人間を乗せた軽気球の飛揚にわが国の民間企業で初めて成功。初代源蔵から長男の二代源蔵(梅治郎)に経営のバトンが渡されると、蓄電池の発明や日本初のX線の撮影に成功した。詳しくは本コラム2020年9月25日付の「島津製作所がまるで儲からない『PCR検査試薬』を23年前から作っていた理由」を読んでもらいたい。


