聖書は古の書物ではなく、私たちの生活にも優れた示唆を与えてくれる……。大ベストセラー『超訳 ニーチェの言葉』の著者が、職場や家庭でのビジネスマンの尽きぬ悩みに、独自解釈した聖書の言葉で応える。

現代はセックスレスの夫婦が増えているといわれているが、聖書の時代からユダヤ人社会では2週間にわたって性交渉がなければ、それが離婚事由として認められている。結婚生活がマンネリ化して定期的な性交渉がなくなるということは、聖書的には夫婦関係が破綻していると見なされてもおかしくないのである。

現代人の多くは「愛情とはこういうものだ」ということを自分で決めている。自分が勝手に思い込んでいる「愛」を注げなくなるから、「妻を愛せない」と考える。しかし「愛する」ということはそんなに甘く、やわらかいことばかりではない。新約聖書には「我慢したり、耐え忍ぶことも愛だ」(コリント人への第一の手紙 第13章)という旨の1節もある。

右の言葉は新約聖書の「マルコによる福音書」にある言葉。最後の3行に「神が一体にしたものだ。そんな2人を人が引き離してはならない」とあるが、この場合の「人」は、第三者だけではなく、自分も含まれている。つまり、神が引き合わせてくれた相手と自分たちの都合で別れることをも戒めている。

「愛情を感じなくなった相手と結婚生活を続けることに意味があるのか」と思う向きもあるだろう。キリスト教やユダヤ教の世界観では、愛せない相手でも、いかにも愛しているかのように振る舞うことが大切だと教える。偽善に思えるかもしれないが、愛しているかのように振る舞うこともまた「愛」なのである。

たとえ嫌々でも他人に施すことに意味がある。自分の気持ちではなく、神の意思に従えばいい方向に向かう、という考え方である。そうだとすれば、仮面夫婦にもわずかな希望はある。

聖書の言葉

神はこの世に男と女をつくった。
その男と女はそれぞれの
親を離れ、互いにあいまみえ、
ついに結ばれる。
このときはこの男女はもう
2人ではない。
一体となっている。
それは神の手によって
引き合わされたものだ。
神が一体にしたものだ。
そんな2人を
人が引き離してはならない。

マルコによる福音書 第10章