子どもができない。このまま老後を迎えるのが不安だ
聖書は、子孫を残すことが人間の営みとして大事なことである、という教え方はしていない。子どもは神様からの授かりものであって、願えば授かるかもしれないが、もし授からないとしてもそれは不幸ではないという考え方を示している。
「子どもができなければ人間として一人前ではない」ような考え方は、現代の、しかも日本のような少子化の問題を抱えた社会で流布しがちな考え方であって、実はそこに根拠も理由もない。人生の意味や目的を、世間の常識に合わせるように求めすぎると、思い悩むことが多くなるものだ。
聖書は子孫や財産を残すことより、まっとうな生き方をするほうが大事だと説く。代表的なものが右の1文で、旧約聖書にある教訓書の1つである「知恵の書」の言葉だ。
普段から徳のある生き方をしていれば、皆から慕われ、尊敬される。たとえ子どもがいない人でも、子どもから「お父さんのようになりたい」「お母さんみたいになりたい」と思われる代わりに、何人もの人から「あの人のようになりたい」と思ってもらえる。だからちっとも寂しくない。
「このまま老後を迎えるのは不安」という部分については、「自分の面倒を見てくれる人がいなくて心配」という意味なら、ただの自己保身というものだ。子どもの介護をあてにするような生き方は「徳がある」とは真逆である。
そもそも起きてもいないことをあれこれと心配するのはすべて妄想でしかない。妄想に心煩わされるのは考える余裕があるからで、人はもっと目の前の今を生きるべきだろう。新約聖書には次のような1節もある。
「明日のことのために今日あれこれと心配しないように。明日のことは、明日みずからが心配すればいい。きょう1日の労苦は、きょう1日だけで充分に足りている」(マテオによる福音書 第6章)
もし自分に子どもがいなくても、
徳を持っていればよい。
徳こそ不滅のものだからだ。
神も人も徳を喜ぶ。
そこに徳を見出すと、
人は真似ようとする。
徳が欠けていれば、それを
欲しがる。だから、悪い人に
どれだけ多くの子孫がいても
何にもならない。
徳がないからだ。
生きた年の数で
人を計ってはならない。
正しかったか、徳があったか、
愛があったか、が喜ばれる。
そういう人の霊魂が
神に喜ばれる。
知恵の書 第4章
※フェデリコ・バルバロ訳『聖書』に準拠
青森県青森市生まれ。ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。著書に『超訳聖書の言葉』『超訳 ニーチェの言葉』『この一冊で「聖書」がわかる!』などがある。