歴史からどんなことが学べるのか。国際日本文化研究センター助教の呉座勇一さんは「ビジネス雑誌などで『信長のリーダーシップに学ぶ』といった企画は多いが、企業経営者や管理職はむしろ、織田信長の人使いを反面教師とすべきだろう」という――。

※本稿は、呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

織田信長像
織田信長像(画像=名古屋市秀吉清正記念館/Google Arts & Culture/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ブラック企業としての織田家

織田信長の軍隊は、世間のイメージに反して寄り合い所帯であった。広範な地域の多様な武士を糾合して急速に勢力を拡大したからである。とはいえ織田信長の覇権が確立するにつれ、外様である現地武士は織田譜代家臣の下に編成されていき、混成部隊ではなく統率の取れた軍隊へと次第に成長していったはずである。だが問題は、その困難な仕事を担ったのは信長本人ではなく、明智光秀や羽柴秀吉ら「織田大名」だったことにある。信長は直臣である「織田大名」たちに丸投げしてしまうからだ。

天正8年8月、本願寺を降伏させた信長は、筆頭家老で本願寺攻めの最高責任者であった佐久間信盛を追放した。このとき信長は、信盛に送りほかの家臣たちにも公開した折檻状で、明智光秀・羽柴秀吉・柴田勝家らに比べて信盛の戦果が乏しいことを指摘し、その原因として、知行が増えても信盛が新たに家臣を召し抱えたり家臣に加増したりせず、軍事力強化に不熱心だったことを挙げている(『信長公記』)。

信盛に対する信長の非難を「裏返せば、信長が直臣の所領高の把握をせず、それにみあう軍役量を規定していなかったことに原因があるともいえる。そうした規定があれば、信盛もそれに応じた家臣を抱えたはずである」と池上裕子氏は読み解いた(『織田信長』)。正鵠を射たものだろう。

藤本正行氏も「武田家や北条家は軍役に関して細かい規定を定め、家臣たちに発給したのに対し、織田家ではドンブリ勘定で軍勢を集めたのだろうか」と訝しんでいる(『本能寺の変』)。そもそも信長は、検地によって家臣たちの知行を正確に把握しようとしていないので、知行高に対応した軍役を決定することなど不可能だっただろう。

成果主義が織田軍の強さを生み出していたが…

何万石の知行なら何人の家臣を抱えよという客観的な基準がなく、軍功は信長の主観で事後的に評価される。最低限のノルマが示されていない以上、光秀ら重臣は限界以上の大軍を動員して、ライバルの重臣たちに見劣りしない成果を必死で出すしかない。この極端な成果主義、競争を煽る仕組みが織田軍の強さを生み出していた。

けれども、そのような際限ない軍役負担を課せられた「織田大名」の家臣たちは不満を鬱積させていき、また領国も確実に疲弊するが、家臣団編成や領国経営の結果責任はすべて光秀ら「織田大名」に帰せられる。信長の判断一つで、彼らはたちどころに失脚するかもしれないのだ。「織田大名」の信長への信頼と感謝、そして畏怖だけが、この体制を担保していた。

光秀の謀叛ばかりが注目されるが、光秀が決起する以前に信長に反旗を翻した者は多い。浅井長政、松永久秀、別所長治、荒木村重らである。とくに松永久秀と荒木村重に関しては、明智光秀と謀叛の理由が類似する。無制限の奉仕を要求する織田家のブラック企業的体質に対して、我慢の限界に達したと考えられるのだ。

信長の極度に軍事に偏重した政治体制は、即効性があり短期的には極めて有効ではあるが、早晩行き詰まることは目に見えていた。光秀の謀叛がなかったとしても、信長の覇業はどこかで破綻していたであろう。