関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成は、なぜ徳川家康に敗れたのか。国際日本文化研究センター助教の呉座勇一さんは「三成は豊臣秀頼の権威を過大評価し、情勢を楽観視していた。だが現実には多くの大名は、絶大な実力者である徳川家康への追従を優先した」という――。

※本稿は、呉座勇一『日本史 敗者の条件』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

関ヶ原14武将のタペストリー
写真=時事通信フォト
イラストレーターの長野剛さんが描いた岐阜関ケ原古戦場記念館の壁に掛かる関ヶ原14武将のタペストリー=2020年10月21日、岐阜県関ケ原町

石田三成の「最初の誤算」

石田三成の徳川家康打倒の企ては挙兵、大坂城占拠、「内府ちがいの条々」の発送までは思惑どおりに進んだ。ところが、その直後から計算は狂い出す。三成最初の誤算は、「内府ちがいの条々」が思ったほどの効果をもたらさなかったことである。

三成らの「内府ちがいの条々」は、西日本の諸大名の積極的な西軍参加を促すとともに、家康率いる会津征伐軍に参加した諸将の離反を煽ることを目的としていた。けれども、西日本の諸大名は表面上、西軍に従ったにすぎず、遠隔地にいる大名の多くは傍観するか、家康に通じた。積極的な協力姿勢を示したのは立花宗茂、長宗我部盛親などごく少数にとどまった。会津征伐軍からの離反者も真田昌幸などわずかだった。

佐和山で謹慎していた三成の想像よりも、家康の独裁権力は強靭であった。「内府ちがいの条々」によって正当性を剝奪したにもかかわらず、最大の実力者である家康に諸大名がなびく趨勢を逆転させることはできなかったのだ。

とくに、家康の老臣・鳥居元忠が立て籠もる伏見城の攻略に半月を要したことは、西軍の先行きに暗い影を落とした。守備隊が2000人に満たない伏見城を攻めあぐねたことは、西軍の威信を低下させたのである。

徳川家康の西上阻止が西軍の基本戦略

会津征伐に向かっていた家康が、西軍の決起を知って反転してくるであろうことは、三成らも当然予期していた。よって、家康の西上阻止が西軍の基本戦略であった。西軍の防衛戦略を知るうえで参考になるのが『十六・七世紀イエズス会日本報告集』である。下に該当箇所を掲げる。

「日本国全土は(東西)二軍に分かれた内戦によって燃え上がったが、その一方(西軍)は9名からなる国家の奉行たちが指揮し、他に大勢の諸侯がいた。もう一方の軍勢(東軍)の大将は内府様(家康)であったが、彼は己が領国である関東に留まって、奉行の一人であった(上杉)景勝と戦さをしていた。奉行側に味方していた者たちは、都へ通じるすべての街道を封鎖することを考え、こうすることによって軍勢を率いて都へ帰ろうとする敵の望みを奪おうとした。彼らはこの計画を実行するために、伊勢と美濃の国に己が最大の軍勢を集結させた」(「1600年度年報補遺」)

「諸奉行の軍勢は、尾張の国を奪取することを企て、それに隣接する内府様側の伊勢、美濃両国に進攻しつつあった」(「1599~1601年、日本諸国紀」)