「福島正則を寝返らせることができる」と考えていた
すなわち、西軍は伊勢・美濃を防衛ラインと考えていたが、できれば尾張にまで進出し、そこで家康ら東軍を迎撃するつもりであった。このことは、伏見城を攻め落としてから数日後の8月5日に、三成が信濃の真田昌幸に送った書状からも裏付けられる(真田昌幸・信幸・信繁宛て石田三成書状、「真田家文書」)。三成は昌幸に対し、美濃岐阜城主の織田秀信(信長の孫)と協議して尾張に出兵したことを報告している。また、東軍の福島正則を説得中であり、もし正則を取り込めたら三河に出陣し、説得に失敗したら正則の居城である尾張清須城を攻めるという方針を伝えている。
この書状で興味深いのは、三成が福島正則を寝返らせることができると考えていた点である。小説やドラマの影響もあって、正則は反三成の急先鋒と見られがちだが、実際にはそこまで両者の関係は悪くなかったのだろう。秀頼への忠義をもち出せば、豊臣恩顧の正則を翻意させられる、と三成はにらんでいたのである。
だが、三成の見通しは甘かった。周知のように、正則は家康に忠誠を誓い、清須城は東軍の最前線基地として機能した。尾張が東軍の勢力圏に入ったことで、三成の戦略は大きな修正を迫られた。
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