NHK大河の主人公、蔦屋重三郎とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「吉原に関する書籍だけでなく、画家を発掘、プロデュースし世に送り出した。彼らの作品を見れば、蔦重が『メディア王』と呼ばれるのもうなずける」という――。
江戸時代に「浮世絵」が大流行したワケ
喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎。いわずと知れた世界的に評価が高い浮世絵画家たちである。
これら3人が全員、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)と深い関係があり、それどころか蔦重に見出されなければ世に出ておらず、蔦重がプロデュースしなければ、著名な作品群は生まれなかった――。そう書けば、「メディア王」と讃えられた蔦重の能力の高さが伝わるだろう。
浮世絵には肉筆画と木版画があるが、私たちが一般に「浮世絵」と認識しているのは木版画で、なかでも多色摺りの「錦絵」と呼ばれるジャンルである。
明和年間(1764~72)のころ、俳諧人をはじめ裕福な趣味人のあいだで絵暦の交換会が流行し、彼らはカネに糸目をつけず、多色刷りによる華美な木版画を求めた。こうした要請に、7色、8色と摺り合わせた「錦」を思わせる色鮮やかな絵で応えたのが鈴木春信で、最初の錦絵は春信の手で、明和2年(1765)ごろの絵暦交換会に合わせて描かれた。
続いて、春信の影響を受けた美人画の磯田湖龍斎が、当世風の着物に身をつつみ、流行りの髪型で飾った吉原の花魁を描いた「雛形若菜初模様」を描き、錦絵による美人画が流行する端緒となった。
「べらぼう」の第4回「『雛形若菜』の甘い罠」(1月26日放送)では、蔦重がその制作に勤しむ姿が描かれた。実際、安永4年(1775)から約140点が出版されたこの連作錦絵のうち10点以上には、蔦重の屋号「耕書堂」の印があり、出版に蔦重が関わって奔走したことがわかる。