「美人画の天才」はこうして生まれた

さて、美人画の世界では、続いて活躍した鳥居清長をはさんで喜多川歌麿が登場する。歌麿はキャリア初期には、狂歌を集めた狂歌本の挿絵を多く描いたが、そこに歌麿を起用したのは蔦重だった。

初期には「北川豊章」などの名義をもちい、天明元年(1781)に蔦重が手がけた『身貌みなり大通神略縁起だいつうじんりゃくえんぎ』という黄表紙(娯楽性が高い絵入りの小説)の挿絵を描いたあたりから、「歌麿」と名乗るようになった。改名にあたって上野の料亭で開かれた宴席も、蔦重が仕かけたといわれる。

喜多川歌麿の肖像画
喜多川歌麿の肖像画(画像=鳥文斎栄之筆/大英博物館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その後、蔦重は天明6年(1786)に刊行した『絵本江戸爵』、翌年の『絵本詞の花』、その翌年の『画本虫撰えほんむしえらみ』、寛政3年(1791)の『百千鳥狂歌合ももちどりきょうかあわせ』といった狂歌本で、歌麿による錦絵の挿絵を立て続けに採用。これらに描かれた花や虫、鳥などからは、歌麿の類まれな観察眼と、きわめて微細な線による驚くべき描写力が伝わる。