「美人画の天才」はこうして生まれた
さて、美人画の世界では、続いて活躍した鳥居清長をはさんで喜多川歌麿が登場する。歌麿はキャリア初期には、狂歌を集めた狂歌本の挿絵を多く描いたが、そこに歌麿を起用したのは蔦重だった。
初期には「北川豊章」などの名義をもちい、天明元年(1781)に蔦重が手がけた『身貌大通神略縁起』という黄表紙(娯楽性が高い絵入りの小説)の挿絵を描いたあたりから、「歌麿」と名乗るようになった。改名にあたって上野の料亭で開かれた宴席も、蔦重が仕かけたといわれる。
その後、蔦重は天明6年(1786)に刊行した『絵本江戸爵』、翌年の『絵本詞の花』、その翌年の『画本虫撰』、寛政3年(1791)の『百千鳥狂歌合』といった狂歌本で、歌麿による錦絵の挿絵を立て続けに採用。これらに描かれた花や虫、鳥などからは、歌麿の類まれな観察眼と、きわめて微細な線による驚くべき描写力が伝わる。
革新的なアイデア
歌麿による精緻な絵を錦絵にするためには、すぐれた彫師や摺師も必要で、こうした作品をとおして錦絵の製作技術も向上していった。そして、その延長に歌麿の代表作である「大首絵」が登場する。
美人画といえば基本的に全身像だった当時、大首絵の登場は衝撃的だった。上半身やバストアップを画面いっぱいに大写ししたブロマイドのような構図。女性の表情を際立たせる背景の省略。雲母の粉を使った雲母摺による華麗な余白。これらは歌麿の描写力を最大限に活かすための、蔦重のアイデアだったと考えられる。
蔦重は『百千鳥狂歌合』が刊行された寛政3年、松平定信による寛政の改革のあおりで摘発され、資産半減の処分を受けた。歌麿の美人画を次々と刊行したのはその翌年からで、「婦人相学十躰」「婦女人相十品」「姿見七人化粧」「琴棋書画」「見立六歌仙」などの傑作が続々と世に送り出された。