室町幕府を開いた足利尊氏とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「戦前の日本では天皇に弓を引いた逆賊として扱われていた。しかし、近年の研究を見るとその評価は間違っていたことがわかった」という――。
足利尊氏騎馬武者像(神奈川県立歷史博物館藏)
足利尊氏騎馬武者像(神奈川県立歷史博物館藏)(写真=『日本の英雄100人』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

日本史上において最も毀誉褒貶が激しい人物

史上最悪の逆賊なのか、はたまた稀代の英雄なのか。日本史上における著名な政治家または武将で、足利尊氏ほど毀誉褒貶が激しく、時代によって評価が異なった人物は、ほかにいないだろう。

このうち戦前の評価は「逆賊」に一本化されていた。その流れをつくったのは、天皇を中心とする秩序を重んじ、後醍醐天皇が開いた南朝を正統と唱える水戸学だった。よく知られているように、幕末の政治運動の支柱となった尊王攘夷論は、水戸学の中核をなす考え方だった。

尊王攘夷論が目に見えるかたちで足利尊氏に向けられたのは、俗にいう「足利三代木像梟首きょうしゅ事件」だった。これは文久3年(1863)2月22日深夜、京都の等持院霊光殿に安置されていた足利尊氏、義詮、義満、すなわち室町幕府の初代から3代までの将軍の木像の首、および位牌が持ち出された事件である。3つの首は三条河原に「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」という罪状とともに晒された。

少し早いが結論を先にいっておくと、水戸学に代表される、足利尊氏を「逆賊」とする評価には、歴史的な裏づけがまったくない。尊氏は「逆賊」などと呼ばれかねない失敬がないように、むしろ配慮し続けた人物だった。

また、弟の直義との名高い兄弟げんか、すなわち観応の擾乱かんおうのじょうらんについても、配慮ができる人物だからこそ弟に大きな権限を持たせ、激しいけんかになったといえる。