8代将軍・徳川吉宗の孫、松平定信(賢丸)はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「幼少期から聡明で、将軍の有力候補だった。田沼意次の暗躍によってその道が絶たれるも、そこで定信の人生は終わらなかった」という――。

吉原の興隆は「蔦重のおかげ」だけではない

のちに江戸の「メディア王」にのし上がる蔦屋重三郎(横浜流星)は、まだ20代前半。生まれ故郷の吉原を盛り上げるために知恵を絞っている。

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第3回「千客万来『一目千本』」(1月19日放送)では、そんな蔦重が120人あまりの女郎たちを生け花に見立てた画集『一目千本』を、はじめてみずからが版元になって刊行。安永3年(1774)7月のことだった。これが評判を呼んで、吉原が文字どおりに「千客万来」の状況になる様子が描写された。

もっとも、吉原が活性化したのは、蔦重一人の手腕によるものではない。大本には時の老中、田沼意次(渡辺謙)の施策があった。要するに、農業に支えられた経済から商品経済へと移行する逆らえない流れを、さらに後押しするのが田沼の政治だった。通貨を安定させ、商人たちからは運上金や冥加金という名の営業税を徴収し、その代わり株仲間をつくって営業を独占するのを許した。

田沼意次
田沼意次(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

経済の実態を肯定し、それに逆らわず、適度なインフレに導きながら構造改革を進めた田沼。その結果、経済が活性化し、商人たちが利益を得て、その金が町に流れることで文化が盛んになり、その質も底上げされた。そうなれば吉原も賑わいやすいのはいうまでもない。