傑作を残し、天才は消えた

役者絵の世界では美人画より20年ほど早く、上半身を大写しした大首絵の構図が取り入れられていた。勝川春章や春好、春英ら勝川派、そして歌川豊国らが人気絵師だったが、そこに蔦重は無名の絵師による役者絵で殴り込みをかけた。東洲斎とうしゅうさい写楽である。

一挙に28点刊行された写楽の躍動感あふれる大首絵は、今日では非常に評価が高いが、じつは、それはドイツの美術研究家ユリウス・クルトが、明治43年(1910)に自身の著作で写楽を称賛して以来のもの。同時代には豊国らのほうがよほど評価は高かった。

三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演「恋女房染分手綱」
三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演「恋女房染分手綱」(画像=東洲斎写楽/メトロポリタンミュージアム/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

写楽が受けなかった理由を、文人の太田南畝は『浮世絵類考』にこう書いている。「歌舞伎役者の似絵をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム」。

要は、あまりにリアルに描きすぎてしまったので、長く刊行されることはなかった、という評価である。実際、わずか10カ月のあいだに140点ほどの作品を残し、忽然と姿を消した。

実際、写楽の絵はリアルで、もっといえば、リアルが過ぎたようだ。たとえば「三代目瀬川菊之丞」に描かれた女形などがわかりやすい。勝川派や豊国は菊之丞を理想化し、女性になりきったように描いているが、写楽が描くとオジサンが女性に化けようとしているようにしか見えない。

だからおもしろいのだが、新しすぎた。吉原は隅々まで知悉ちしつしている蔦重だが、役者の世界には素人で、現状におけるニーズを読み切れなかった、ということだろう。

東洲斎写楽の正体

この写楽、徳島藩蜂須賀家のおかかえ能役者、斎藤十郎兵衛だということで、ほぼ決着がついている。同時代のものではないが、『江戸名所図会』などの著述で知られる斎藤月岑が編纂して天保15年(1844)に刊行された『増補浮世絵類考』には、「写楽斎」の項目に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」と記されている。また、前出のクルトもこの説を採用している。また、歌舞伎と能との違いはあるが、役者の体の使い方を知っている人物でないとこうは描けない、ともいわれている。

とはいえ、ライバルの歌川豊国や鳥居清政だという説、戯作者の山東京伝であるという説など、諸説が存在している。それこそ歌麿説や北斎説もあるし、作家の島田荘司氏が『写楽 閉じた国の幻』(新潮社)で論じたように、オランダ人だという説まである。だから、唐丸が写楽だった、という展開になっても、許される範囲の虚構だといえよう。

最後に北斎だが、蔦重とこの画家との関係は、歌麿や写楽ほどは深くない。だが蔦重は、勝川春章に師事して勝川春朗と名乗っていたころの北斎に、山東京伝作の黄表紙の挿絵を描かせている。寛政4年(1792)の『昔々桃太郎発端話説』で、ほかに役者絵や武者絵も蔦重のもとで刊行された。

北斎も出自についてはわからないことが多いが、本所割下水(墨田区亀沢)の近くで生まれたという説が一般的である。生年は宝暦10年(1760)とされるので、蔦重より10歳年少ということになり唐丸の年齢とも合う。

唐丸は「べらぼう」の第5回で姿を消すようだが、「勝川春朗」すなわち将来の北斎として戻ってきても、不思議ではない。

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