※本稿は、市川歩美『味わい深くてためになる 教養としてのチョコレート』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
長崎の遊女が受け取った「しょくらあと」
日本に初めてチョコレートが伝わったことがわかる、最も古い記録は長崎県にあります。
ときは江戸時代。1797年に、遊女がチョコレートを長崎の出島のオランダ人から受け取ったとする記録が残されています。それは、長崎の有名な遊郭街・丸山町の『寄合町諸事書上控帳』で、遊女の貰い品目録に「しょくらあと六つ」と書かれていることからわかります。「しょくらあと」とは、チョコレートのこと。チョコレートを六つ、受け取ったということです。
さらに1867年、パリで開催された万国博覧会に江戸幕府の代表として赴いた、第15代将軍徳川慶喜の弟で水戸藩主の徳川昭武がフランス・シェルブールのホテルでココアを味わった記録も残っています。
つづいて明治時代。かの有名な岩倉使節団も、チョコレートと深い関わりがあります。
1873年、岩倉具視を特命全権大使とする使節団が、フランスを訪れました。このとき、使節団はパリ郊外のチョコレート工場を視察し、チョコレートを味わったとされています。この出来事は『特命全権大使 米欧回覧実記』に記録されています。
チョコレートは「貯古齢糖」
使節団が伝えたチョコレート情報をキャッチし、日本で初めてチョコレートを作ったのは、東京の両国若松町にあった菓子店「米津凮月堂(風月堂)」(のち東京凮月堂)の米津松造さんです。
東京凮月堂の社史によると、1878年12月21日の『郵便報知新聞』に「この度、ショコラートを新製せるが、一種の雅味ありと。これも大評判」と書かれたようです。また、同年12月24日付『かなよみ新聞』の広告には、チョコレートが「貯古齢糖」と表記されています。
ただ、今では想像しづらいのですが、当時の日本ではチョコレートを、あやしげな食べ物と見なす人が多かったようです。
珍しいうえにとても高価だったので、購入するのは一部の裕福な人や居留地に住んでいた外国人などに限られていました。