「1185年」説も「1192年」説も定説ではない
武家政権としての鎌倉幕府が成立した年については、現在も定説なんてないのだ。
1185年は源頼朝が平氏を倒し、家臣を守護・地頭として全国に配置する権利を朝廷から獲得したり、兵糧米を徴収できるようになったから、武家政権が成立した年として有力であることは確か。けれど、まだ決まったわけではない。
それは、日本史の教科書をきちんと読んでみればすぐわかる。いまでも多くの教科書に1192年説が掲載されているからだ。
「1185年は実質的な武家政権の誕生、1192年は源頼朝が征夷大将軍になったことで、名実ともに鎌倉幕府が成立した年」、そんなふうに2段階に書いてあるのだ。
また、東京書籍の教科書『新選日本史B』(2017年)では「鎌倉幕府の成立時期」というコラムをもうけて、6つの幕府成立説を取り上げ、まだ1185年説が定説でないことを暗に示している。
中世史の大家が「1221年」説を唱えた理由
ちなみに幕府の成立年については、個人的な思い入れがある。
私は青山学院大学文学部史学科に入ったが、大学1年生のとき「史学概論」という歴史学に関する必修科目を受けた。このときの担当が中世史の大家で名誉教授の貫達人先生だった。貫先生は言った。
「鎌倉幕府の創立は、1221年と覚えなさい」
その言葉に驚いたが、言われてみれば納得だ。この年、西国を支配する朝廷の後鳥羽上皇が挙兵して幕府に敗れ、幕府は西国にも勢力をのばし、名実ともに全国政権となったからだ。でもそうなると、幕府をつくったのは源頼朝ではなくなってしまう。
なぜなら頼朝は1199年に死んでしまっているからだ。まるで笑い話だ。
そんな貫先生の授業で、いまも忘れられない講義がある。
イケメンでモテモテの平貞文という平安貴族がいた。そんな彼にも本院侍従と呼ばれる女性はなびかなかった。彼女も絶世の美女だった。何度もアタックしたが相手にされない。そこで、あきらめるために貞文がとった行動が彼女の箱を奪うことだった。