※本稿は、堀江貴文『ホリエモンのニッポン改造論』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。
地方の衰退は「国家的損失」である
東京の人口過密状態は、過酷といってもいいほどである。街に出れば往来の人々とぶつからないよう気をつけねばならず、電車に乗れば見知らぬ人と至近距離になる。私には無縁だがラッシュ時の満員電車など正気の沙汰ではない。
東京という街は、たしかに刺激的で魅力にあふれている。ファッションにハイカルチャーにサブカルチャー、さらにはクオリティの高い多種多様な飲食店。どれを取っても東京はピカイチだ。地方から東京に移り住む人が多いのは理解できる。
しかし、この東京一極集中状態が維持、あるいは増幅すればするほど、地方からは人がいなくなり、過疎化と経済的荒廃が進むという事実を無視してはいけない。何より地方には地方の魅力がある。その宝をみすみす失うことは、日本の国家的損失なのである。
毎年2月、私は鳥取県にある「かに吉」で蟹のフルコースを食べる。毎回、唯一無二の極上の蟹料理を味わわせてもらえて大満足だ。地方の飲食店としては破格の金額を請求されるが、それだけの価値、いやそれ以上の価値があると思っている。
ホリエモンが考える「日本という国土の特殊性」
鳥取には飛行機で行くのだが、真冬の2月のこと、離着陸の前後には広大な美しい雪景色が眼下に広がる。それを眺めながら、あるとき、ふと日本という国土の特殊性について思いを馳せた。
まず言えるのは、日本は、平地が少ない狭い国でありながらも、豊富な水源のおかげで世界一清潔な民族になったこと。そして島国だからこその防疫体制で、人口密度が高くても安全な国をつくることができた。
人口密度が高いことは、日本中の土地がほぼ開拓され尽くしたことを示している。おそらく江戸時代の時点で、すでに北海道以外のほとんどの地域で未開地はほぼ消滅し、田んぼが広がっていたはずだ。
そこから強固な家族制度とコミュニティが形成された。ほぼ人力で開墾された土地の維持には、濃い人間関係による協力体制が不可欠だからだ。どのような山間部にも、それなりのサイズの集落が存在したはずだ。