2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年9月10日)
16人以上の側室がいて女好きを自認していた豊臣秀吉だが、なかなか子供はできなかった。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「側室の淀殿が産んだ秀頼は、秀吉の実子ということになっているが、秀吉が淀殿の懐妊を知ったのは妊娠7カ月の段階と遅く、秀吉は正室に向けて『私たちは子供を欲しくないと思ってきた』という手紙を書いている」という――。
歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]
歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

秀吉存命時から噂されてきた「秀頼は秀吉の子ではない」説

大坂夏の陣(1615年)で、徳川家康に滅ぼされた豊臣秀頼。秀頼は、豊臣秀吉の子である。教科書をはじめとする多くの歴史書には、そのように書かれていると思います。しかし、秀頼は、秀吉と淀殿(秀吉の側室。北近江の武将・浅井長政と織田信長の妹・お市との間に生まれる)との間に生まれた子供ではないという「異説」もあるのです。しかも、その異説というのは、現代の一部の歴史家が書物に記しているというだけではなく、江戸時代の書物にも記されていたのでした。

例えば『明良洪範』という書物がそうです。同書は、16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏や諸大名、その他の武士の言行・事跡などを収録した逸話集であります。江戸時代中期頃に編纂されたと考えられ、著者は江戸千駄ヶ谷・聖輪寺の住持である増誉。同書の成立年代や性質からして、信用できる史料というわけではないのですが、そこに秀頼の出生に関して、次のような話が記されているのです。

「豊臣秀頼は、秀吉公の実子にあらずと密かに言っている者もいる。その頃、卜占(占い)に巧みな法師がいたのだが、その者が言い始めたとのこと。淀殿は、大野修理と密通し、捨君と秀頼君を産んだのだ。秀吉公の死後は、淀殿はいよいよ情欲に耽った。大野は、邪智で淫乱で、なおかつ容貌が美しかった。名古屋山三郎は美男であったので、淀殿は思いを寄せ、不義があった。大坂(豊臣家)が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正より起こった」と。

淀殿が側近の大野治長と密通していたという逸話集も

この一文に登場する「大野修理」というのは、大野治長(生年不詳〜1615)のこと。淀殿の乳母で侍女ともなった大蔵卿局の子です。関ヶ原の戦いでは、東軍に属するも、戦後は淀殿の信任を得て、頭角を現し、大坂方の中心的な人物となりました。大坂夏の陣においては、秀頼や淀殿に殉じて、自害しています。ちなみに、彼には大野治房という弟がいて、治房は徳川に対する主戦論者として有名です(大坂の陣後は、消息不明となる)。

文中に出てくる「捨君」というのは、秀吉と淀殿の間に最初に産まれたとされる男子・鶴松のこと。『明良洪範』の収録文によると、鶴松(1589〜1591)も、秀頼(1593〜1615)も共に、淀殿と大野治長の子だというのです。