実測図と写真がふんだんに残る

昭和5年(1930)、名古屋城の大小天守をふくむ24棟の建造物が国宝に指定されると、名古屋市土木部建築課はそれらの調査に着手し、文部省の指導にしたがって細部まで詳細に計測した。

その図面の整理作業中に、天守をはじめ20棟が焼夷しょうい弾を落とされて焼失したのだが、整理作業自体は戦後も続けられ、昭和27年(1952)、282枚の清書図と27枚の拓本が完成した。さらに、昭和15年(1940)からは24棟の写真撮影が行われ、733枚のガラス乾板に収められた。

天守建築の最高傑作の一つで、日本が誇る木造建築の到達点でもあった名古屋城天守。その実測図と写真がふんだんにそろい、細部まで忠実に復元できるのである。

戦後の再建に際しては、市街地が焼け野原になった記憶がまだ生々しい時期だっただけに、耐火性能が高い鉄筋コンクリート造が選ばれたのも仕方ない。しかし、この日本が誇るべき木造建築の粋を精密に復元できるなら、それを実現させない手はないと思う。

歴史的空間を後世まで正しく理解するために

「焼けてしまったものを復元しても、本物ではないのだから」という意見を耳にすることがある。しかし、名古屋城天守の場合は、わからない部分は推定で補う、という一般にありがちな作業が要らない。失われたものと同じ姿を再現できる。

たしかに、それは焼失した建築そのものではないが、後世まで歴史的空間の正しい理解に寄与するだろう。また、木造建築の到達点である以上、それを再現することは、伝統工法を継承するうえでも意義があり、復元作業も、完成した建造物も、われわれ日本人が伝統文化や技術に誇りをもつことに寄与するだろう。

だからこそ私は、名古屋市がいう「様々な工夫により、(だれもが)可能な限り上層階まで上ることができるよう目指す」という姿勢の大切さは認めながらも、精密な復元に水を差してしまうエレベーターの設置には否定的である。

だが、それはここでの主題ではない。名古屋城天守の復元は、エレベーターの設置問題を皮切りに、さまざまに味噌をつけられた感がある。

しかし、原点に戻れば、名古屋城ほど正統的で、正確で、精密で、意義がある復元が可能な天守はほかにない。復元が可能かどうかを探る必要がある江戸城とは、次元がまるで違うのである。

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