史上最大の木造建築のひとつ

まずは、江戸城天守について確認したうえで話を進めたい。

江戸城には5重5階の天守が計3回、建てられた。最初は慶長12年(1607)に徳川家康が建てており、屋根に鉛瓦が葺かれた真っ白な天守だった。だが、本丸を拡張するのに邪魔になったため、2代将軍秀忠は元和8年(1622)、これを解体してあらたに造営した。

その15年後にも、今度は3代将軍家光が秀忠の天守を解体し、用材を再利用して、ほぼ同じ規模の天守を建て直した。

「江戸図屏風」に描かれた家光時代の天守
「江戸図屏風」に描かれた家光時代の天守(画像=国立歴史民俗博物館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

高さ7間(14メートル弱)の石垣(天守台)上に建てられたこの天守は、木造部分の高さが44.8メートルと史上最高で、現存天守で一番高い姫路城天守の32メートルをはるかに上回り、世界史上における最大の木造建築のひとつだった。

外観は黒い壁面が特徴だった。耐火性能を高めるために、黒い塗料が塗られた高価な銅板が貼られ、屋根も銅瓦葺だった。最上階の屋根には金の鯱が輝き、破風(屋根の妻側の造形)は黄金の金具で装飾されていた。

城郭建築の権威である広島大学名誉教授の三浦正幸氏は、「その造形の洗練された美しさで他城の天守を寄せ付けず、天守建築の最大かつ最高傑作であり、さらには世界に誇る日本の伝統的木造建築技術の最高到達点であった」と記している(『図説 近世城郭の作事 天守編』原書房)。

だが、このモニュメンタルな天守は、江戸の町の6割を焼き尽くした明暦3年(1657)の大火で全焼すると、再建されなかったのである。

再建に横たわる難問

それでは、江戸城天守の復元にはどんな困難が伴うのか。

500億円ともいわれる復元費用をどうやって賄うか、という問題があるが、私は復元されれば、首都のど真ん中であるだけにインバウンドもふくめた経済効果が大きく、もとはすぐにとれると考える。

また、復元の対象となる家光の天守は、370年近くも前に焼失していながら、外観をかなり正確に再現できる。「江府御天守図百分之一」「江戸城御本丸天守建方之図」「江戸城御本丸御天守外面之図」(いずれも甲良家文書)などが残っているためで、すでに前出の三浦氏が、復元の手順を検討した報告書も作成している。

一方、課題も多い。本丸跡がある東御苑は、一般公開されてはいても皇居の一部であり、天守を復元するとなると、法改正等の手続きが必要になるはずだ。また、皇居を睥睨する建築が皇居内にできることに、抵抗する声も上がるだろう(すでに皇居の周囲には高層ビルが多く建っており、ナンセンスな意見だと思うが)。

だが、それ以上の問題は、今日まで残されている天守台の石垣上には、天守が建ったことがないという歴史的な事実である。