法律が機能していれば、貴族も、源氏物語も無かった
厳密に法律が機能していれば、藤原道長も光源氏も、いや貴族すべてが検挙され、内閣はもちろん貴族社会は瓦解する。『源氏物語』は発禁処分を受けるだろう。何しろ光源氏と桐壺帝の皇后藤壺宮、光源氏の正妻女三宮と柏木の二つの密通事件が、物語のバックボーンになっているのだから。
幸いなことに法律は適用されなかったが、「密か事」「あさましかりし事」や「穢れたり」という言葉には、後ろ暗い影を感じる。
しかしそれは宗教的・倫理的なニュアンスで、光源氏が不倫を後悔する父桐壺帝の皇后藤壺宮を慰める言葉のように、「このような関係になったのも前世からの因縁」で処理するのだ。
光源氏の正妻女三宮と密通した柏木も「どのような前世の宿縁で、このような愛執のとりこになったのか」と内省する。その柏木の子を出産した女三宮も、「この世でこのような思いがけない報いを受けたのだから、来世の罪も軽くなるだろうか」と、前世、この世、来世の三世の因果関係にとらわれているのだから、倫理的な善悪の基準を超越しており、これでは罪の意識などは生じようもない。
「姦夫姦婦の愛」が優れた和歌を生み出す
文学において、姦通の危険を冒す設定の効果は大きい。作中人物の愛はますます高揚し読者をドキドキハラハラさせながら引き付ける。現実世界においても姦夫姦婦の愛はいやが上にも燃え、それがために秀歌も生まれる。
平安末期の歌学書『袋草紙』(雑談)が、「気が進んだことに対しては、秀歌が詠める」としたのはこのことで、具体的な例として従三位左京大夫藤原道雅を挙げている。
『袋草紙』によると、道雅はそれほどの歌の名人という評判もないのに前斎宮の許に密かに通い、女の父三条天皇の怒りを買い、逢うことができなくなった。その時、
と歌う。「これでお別れ」と直接申し上げる機会が欲しいというのは、最後の逢う瀬のチャンスを掴みたい必死の策略だ。
身分差のある禁じられた恋
現職の斎宮ではないので、世間では二人を裂いた天皇を非難、道雅に同情する声もあった。『袋草紙』は「密通の由」というが、有婦有夫間の密通とは異なり、女は皇族、男は家柄身分違いの藤原、それゆえ、禁じられた女に密かに通った意での密通か。
通雅は恋したがゆえに、勅撰和歌集や『百人一首』に採択される一世一代の名歌を残すことができた。もっとも道雅は名人とはいわれないものの和歌に秀で、『後拾遺和歌集』に五首、『詞花和歌集』に二首と、勅撰和歌集に合わせて七首が入集している。