長編小説『源氏物語』は平安貴族たちの間で大評判になった。時の人になった作者・紫式部は、それからどうなったのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの著書『悩める平安貴族たち』(PHP新書)から紹介しよう――。
土佐光起作「紫式部」
土佐光起作「紫式部」(画像=石山寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

熱狂的なファンを生んだ『源氏物語』

紫式部は、夫藤原宣孝没後から家に籠って『源氏物語』を書き始めていた。その後、出仕しても、内裏や土御門殿の賑やかさに溶け込めずに精神がすり減り、その憂愁に抗うように『源氏物語』を書き継ぐのであった。

その頃、宮廷では既に『源氏物語』は読まれていた。『源氏物語』を読んだ一条天皇は、「紫式部は、『日本書紀』を読んでいるのだろう」と言われた。それで日頃から紫式部を快く思っていない女房が、「たいそう学識を鼻にかけている」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名を付けた。

紫式部は「とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか」(『紫式部日記』)と、不愉快に思うのであった。

それでも読者は多かった。その一人が、詩歌管弦に秀でた当時最高の文化人である中納言藤原公任で、宴会で酔いに任せて、几帳という衝立で囲まれた中にいる紫式部を覗いて、「失礼ですが、この辺りに若紫さんが控えておいでではないですか」と言った。紫式部イコール『源氏物語』のヒロイン紫上に見立てたのだ。