平安時代の貴族にとって和歌は重要なコミュニケーションツールだった。多くは恋愛がテーマだが、不倫や人妻をテーマにした和歌も多く詠まれた。どんなことが書かれたのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの著書『悩める平安貴族たち』(PHP新書)から紹介する――。
禁じられた恋の愉悦
「人妻」という言葉には蠱惑的なニュアンスがある。平安人が和歌作製のガイドブックにしていた『古今和歌六帖』第五帖「雑思」にも「人妻」の項がある。
人妻は杜か社か唐国の 虎伏す野辺か寝てこころみん
(人妻は手出しをすると罰が当たる。神のいます杜か神社か、それとも恐ろしい虎がいる野原か、とにかく寝て試みよう)
よみ人知らず(『古今和歌六帖』第五帖「人妻」)
(人妻は手出しをすると罰が当たる。神のいます杜か神社か、それとも恐ろしい虎がいる野原か、とにかく寝て試みよう)
よみ人知らず(『古今和歌六帖』第五帖「人妻」)
と、不届きな凄い歌が挙げられている。
杜の神、神社に祀られている神様、それに虎、触れると罰が当たるか噛みつかれる危険なものを並べ、人妻も触れると祟るか噛みつかれるか、寝てためしてみようというのだ。怖ろしや、怖ろしや、命懸けだ。
人妻に密かに通う行為を「密か事」という。色好みの男女が大勢登場する『源氏物語』には、密か事にふけるカップルも多い。中には虎臥す野辺に寝て食われて、悶死した者もいる。柏木衛門督も、その一人だ。
柏木は光源氏の正妻女三宮と密通し、そのことを光源氏に知られてしまい、恐怖と逢えない苦悩から死んだ。『源氏物語』第三十六帖「柏木」は一帖を使って、衛門督の悩みに悩む心奥を詳細に描く。柏木は、密か事と引き換えに命を失ったのだ。男は官位よりも女のことで死ぬ――道長の息子や『宇津保物語』にある言葉そのままであった。